先輩から押し付けられた、無意味だと思える練習や雑用はサボるも、人知れず、自ら課した自主トレーニングに励んでいたという、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんは、その甲斐あってか、大学進学後、野球部に入部すると、メキメキと頭角を現したといいます。

「長嶋一茂は高校大学時代は全体練習をサボるも自主トレに励んでいた!」からの続き

Sponsored Link

立教大学進学後はメキメキと頭角を現していた

一茂さんは、立教高校卒業後の1984年、立教大学に進学して野球部に入部すると、1年生の時からレギュラーに選ばれ、ほぼ全ての試合に出場するなど、メキメキと頭角を現し、

4年生が引退後は、主将(キャプテン)になり、1987年、大学4年生の時には、4番打者になると、春季リーグ戦では打率3割4分を記録し、(スポーツ記者の投票で満票で)東京六大学野球春季リーグ戦のベストナインに選ばれています。

また、同年6月には、学生選抜チームの一員として日米大学野球選手権大会に出場するためアメリカに遠征し、8月には日本代表として第一回アジア選手権大会に出場すると、アジア選手権の対中国戦では、横浜スタジアムのバックスクリーンに飛距離130メートルの大ホームランを放っています。

秋季リーグ戦で早稲田大学に勝利

ちなみに、当時の立教大学は、スポーツ枠での入学を認めていなかったため、野球部は規模が小さく戦力も脆弱で、東京六大学野球リーグでは、東大の次に弱かったそうですが、

キャプテンである一茂さんの実力が伸びるに従い、チーム全体も強くなっていったそうで、1987年9月12日、秋季リーグ戦での早稲田大学戦では、4対4の同点に追いついた6回一死二塁の場面で、一茂さんがフルカウントから早稲田のピッチャー・竹之内さんが投げ込んだ内角低めの速球を捉えて、110メートルをひとっ飛びするライナー性のレフトスタンドへの本塁打を放ち、早稲田大学に見事勝利したそうです。

Sponsored Link

優勝のかかった法政大学戦ではほとんど活躍できずに敗退

すると、その後も、立教大学野球部は、破竹の勢いで、明治、慶応にも勝ったそうですが・・・

法政大学戦での二試合では、一茂さんは、ほとんど活躍できず、チームは敗退したそうで、惜しくも優勝を逃し、2位に終わっています。

(法政戦二試合のうち一試合さえ勝てば、立教の優勝が確定するという有利な状況だったそうです)

「長嶋一茂は東京六大学で優勝を逃した夜不覚にも彼女の実家で泣いていた!」に続く


1987年、立教大学4年生の時の長嶋一茂さん。

Sponsored Link