1964年には、首位・大洋ホエールズとの直接対決4試合を全勝したうえ、残る3試合に2勝しなければ優勝できない状況で、全勝して、公式戦最終日に優勝を決めた、阪神タイガースですが、この年は、特に、助っ人のジーン・バッキー投手が大活躍したといいます。

「阪神タイガースは1964年に奇跡の逆転優勝をしていた!」からの続き

Sponsored Link

ジーン・バッキーの活躍で大洋との直接対決2連戦を連勝

阪神タイガースは、首位の大洋ホエールズに3.5ゲーム差をつけられ迎えた1964年9月18日、第1試合には、3年目で、このシーズンから先発ローテーションに入ったジーン・バッキー投手が完投し、6対1で勝つ(26勝目)と、

続く第2試合(9月20日)でも、バッキー投手が8回から救援して大洋打線を抑え込み、2対1で連勝したそうで(バッキー投手は27勝目)、

甲子園での直接対決となる第2ラウンドへ望みをつないだそうです。

(この時点で首位・大洋とのゲーム差は1.5)

ジーン・バッキーは村山実とともに二枚看板エースとして活躍していた

そんなバッキー選手は、アメリカ・ルイジアナ州出身で、サウスウエスト大学を卒業後、3Aのハワイ・アイランダースを経て、1962年夏に阪神にテスト入団すると、入団当初はコントロールが悪く、この年は0勝、翌年の1963年も8勝だったそうですが、

小山正明投手のスライダーを研究するほか、1964年に投手コーチに就任した杉下茂さんによる猛烈なトレーニングで下半身を鍛え、制球力をつけたそうで、

長い腕をしならせ、クセのある速球と当時はまだ珍しかったナックルボールを駆使して、勝ち星を積み重ね、村山実投手と共にダブルエースだった小山正明投手がトレードで抜けた穴を見事に埋め、村山実投手と共に二枚看板エースとなっていたのだそうです。

ジーン・バッキーは入団するとすぐにチームに溶け込もうとするほか外国人投手としては考えられない滅私奉公ぶりだった

また、バッキー投手は、阪神に入団するとすぐに、片言とはいえ日本語をマスターし、遠征先では、他の選手たちと同じ宿舎に泊まり、長身につんつるてんの浴衣姿を着て、布団でナインたちと雑魚寝し、甲子園球場近くの文化住宅に住むなど、チームに積極的に溶け込もうとしていたほか、

外国人投手としては考えられない「滅私奉公」ぶりで、「ドンドン投げるよ。ボク、いつでもOKよ!」と、先発であろうとリリーフであろうと意気に感じてマウンドに立ったのだそうです。

Sponsored Link

大洋マジック1で迎えた直接対決第1試合でもバッキーで完封勝ちしていた

さておき、中3日で、9月24、25日に行われるはずだった、甲子園での大洋との直接対決は、台風で中止となり、9月26日、ダブルヘッダーで行われたそうですが、

この試合前、大洋が9月23日の巨人戦ダブルヘッダー第一試合と第二試合に連勝してマジック1としていた中、

第1試合では、またしても、バッキー投手が先発して、5対0と完封勝ち(28勝目)したのだそうです。

「阪神タイガースは1964年9連勝で公式戦最終日に優勝を決めていた!」に続く


(左から)村山実投手、藤本定義監督、バッキー投手。

Sponsored Link