劇作家の唐十郎さん、女優の李麗仙さんを両親に持ち、日本大学在学中に映画「首都高速トライアル」で本格的に俳優デビューすると、1990年代、トレンディドラマで人気を博した、大鶴義丹(おおつる ぎたん)さん。
そんな大鶴義丹さんは、幼い頃は、家の1階が生活の場、2階が稽古場という特殊な環境で育ったそうで、両親は劇団にかかりきりだったことから、ほとんどかまってもらえず、家族団欒(だんらん)などもなかったそうですが、その代わり、「勉強しろ」など、口やかましく言われることもなかったといいます。
今回は、大鶴義丹さんの生い立ち(幼少期から小学生時代まで)をご紹介します。

大鶴義丹のプロフィール
大鶴義丹さんは、1968年4月24日生まれ、
東京都杉並区の出身、
身長180センチ、
靴のサイズは27センチ、
血液型はA型、
学歴は、
玉川学園高等部自主退学
⇒和光高等学校卒業
⇒日本大学芸術学部文芸学科中退
趣味は、自動車、バイク、料理、ワイン、素潜り、スキー・モータースポーツ全般、
免許は、大型自動二輪免許、小型2級船舶取得、
ちなみに、本名は「大靏義丹」(読み方同じ)です。
大鶴義丹が幼い頃は稽古場付き住宅の特殊な環境で育っていた
大鶴義丹さんは、お父さんの劇作家・唐十郎さんと、お母さんの女優・李麗仙さんの間に、一人っ子として誕生すると、1階部分が居住スペース、2階全体が演劇の稽古場という特殊な環境で育ったそうで、
2階の稽古場には、多い時には、50名もの劇団メンバーが密集して、大声を出したり、激しく動きながら、演技に打ち込んでいたといいます。
そのため、大鶴義丹さんの両親は、幼い大鶴義丹さんへの注意は二の次となりがちだったそうで、物心つく頃から、年上の団員たちが、忙しい両親に代わって世話を焼いてくれたそうです。
ただ、それも、本格的な稽古期間に入ると、夜の23時頃まで練習が続き、大鶴義丹さんは完全に置き去りにされたそうですが、
たった1枚の床板を挟んだ上階では、まるで生死を賭けた戦いのような迫力のアングラ演劇が繰り広げられていたことから、
大鶴義丹さんは、わずか5歳という年齢でありながら、上階の緊張感を敏感に察知し、空腹を覚えても「お腹が空いた」と言うことができなかったそうです。
大鶴義丹が小学生の時には自分で料理や弁当を作っていた
そんな大鶴義丹さんは、やがては、テレビの「キユーピー3分クッキング」を見ながら、自分で料理を作るようになったといいます。
というのも、お母さんの料理はあまりおいしくなく、そのうえ、母さんは、お弁当の”仕切り”というものを知らなかったことから、お弁当の蓋を開けると、いつも中身がぐちゃぐちゃになっていたそうで、
友達に見られることが恥ずかしく、運動会や遠足でも、自分でお弁当を作るようになったのだそうです。
大鶴義丹が小学生の時には家族の団欒がほとんどなかった
また、家には常に人がいて、両親も忙しかったことから、家族の団欒(だんらん)というものがなかったそうで、
(誕生日などのお祝いごともしてもらえなかったそうです)
大鶴義丹さんが小学生の頃、10日間ほど芝居の稽古がなく、家族3人だけで過ごした時は、気まずくて仕方がなかったといいます。
大鶴義丹が小学生の頃は友達の家庭を見て驚くことばかりだった
そんな特殊な環境で育った大鶴義丹さんは、友達の家に行くと、珍しいことばかりだったそうで、
特に、
親とはこんなに子どもの面倒をみるものなのか
と、驚いたそうです。
ただ、その代わり、「勉強しろ」「ああしろ、こうしろ」などと言われることはなく、何をするにも口出しされることはなかったそうで、
両親は、それぞれが、自分の好きなように生きていけばいいという考え方だったのだそうです。
「【画像】大鶴義丹の若い頃から現在までの出演ドラマ映画は?監督も!著書は?」に続く
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高校1年生の時から俳優として活動を開始すると、以降、ジャンルを問わず、数多くのテレビドラマや映画に出演するほか、1990年には、作家デビュー作「スプラッシュ」が「第14回すばる文学賞」を受賞するなど、多彩な才能を発揮して …







