1967年、16歳の若さで、「ザ・テンプターズ」のドラマーに抜擢されると、「ザ・テンプターズ」解散後も、「PYG」「ウォッカ・コリンズ」など、時代の最先端を行くロックバンドで活躍するほか、ファッションデザイナー、俳優、画家としても才能を発揮した、大口広司(おおぐち ひろし)さん。
そんな大口広司さんは、お姉さんの影響で、物心ついた頃からアメリカン・ポップスに夢中になると、小学生の時には、「ビートルズ」や「ベンチャーズ」への憧れからドラムを始め、中学2年生の時には、「ジュニア・テンプターズ」(「ザ・テンプターズ」の弟バンド)に加入していたといいます。
今回は、大口広司さんの生い立ち(幼少期~「ザ・テンプターズ」加入)をご紹介します。

大口広司のプロフィール
大口広司さんは、1950年11月28日生まれ、
埼玉県川口市の出身、
学歴は、
早稲田大学系属早稲田実業学校中等部
⇒早稲田大学系属早稲田実業学校高等部中退
ちなみに、「大口広司」本名です。
大口広司は小学生の時に「ビートルズ」や「ベンチャーズ」を聴いてドラムを始めていた
大口広司さんは、精肉店を営む両親のもと誕生すると(きょうだいは少なくとも兄2人と姉1人)、幼い頃は、無口でおとなしい子供だったそうですが、お姉さんの影響で、物心ついた頃からアメリカン・ポップスが好きになると、
小学生の時には、「ビートルズ」や「ベンチャーズ」を聴いて、その憧れからドラムを始めたそうで、学校から帰ってくるとすぐに、椅子をドラム代わりに叩いて練習したそうです。
(当時は、ドラムセットは高額で買えなかったそうです)
また、大口広司さんは、小学生ながら、洋服も好きだったそうで、上野アメ横商店街でジーンズや古着を買っては、ミシンで縫い直して着ていたそうです。
大口広司は16歳の時に「ザ・テンプターズ」の後任ドラマーに抜擢されていた
そんな大口広司さんは、中学2年生(稲田大学系属早稲田実業学校中等部2年生)の時には、大宮にあったダンスホール「大蔵」の専属バンド「ジュニア・テンプターズ」(「ザ・テンプターズ」の弟バンド)に誘われ、加入すると、
1967年初めには、16歳にして、「ザ・テンプターズ」のドラマーに抜擢されたそうで、高校を中退し、プロへの道を歩み始めたそうです。
(1966年11月に、「ザ・テンプターズ」のドラマーが脱退したそうで、その後任だったそうです)
「ザ・テンプターズ」のメンバーは?
ちなみに、「ザ・テンプターズ」は、折からのエレキブームに乗り、1965年、埼玉県大宮の高校生だった田中俊夫さん、高久昇さんらが結成したエレキバンドで、
その後、田中俊夫さんの小学校時代の同級生だった松崎由治さんが参加し、学園祭やダンス・パーティーを中心に活動を展開したそうで、
(「ザ・テンプターズ」は、バンドのテーマ曲にしていたイタリア映画「太陽の誘惑(=temptationという意味)」にちなんで名付けられたそうです)
1966年春には、埼玉県大宮市(現・さいたま市大宮区)にあったダンスホール「大蔵」の専属バンドとなると、やがて、萩原健一さんがボーカルに加わり、東京・恵比寿の「中川三郎ディスコティック」のオーディションを受けると合格したそうで、同店の専属バンドとして人気を集めるようになったそうです。
そんな中、1966年11月にドラマーの市川さんが脱退したことで、大口広司さんが後任ドラマーとして加入し、ここで、松崎由治さん(リード・ギター、ボーカル)、萩原健一さん(ボーカル、ハーモニカ)、田中俊夫さん(ギター、オルガン)、高久昇さん(ベース)と、「ザ・テンプターズ」のメンバーが揃ったのでした。
(「ザ・テンプターズ」は、当初、「ローリング・ストーンズ」などのロックのカバーを得意とするほか、松崎由治さんが手掛けたオリジナル曲を何曲か演奏していたそうですが、当時、オリジナル曲を演奏することは、とても珍しいことだったそうです)
「【画像】大口広司の若い頃は「ザ・テンプターズ」のドラムでブレイク!」に続く
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1967年10月、「ザ・テンプターズ」として1stシングル「忘れ得ぬ君」でデビューすると、1968年3月にリリースした2ndシングル「神様おねがい!」が43万枚を超える大ヒットとなり、その後も、「エメラルドの伝説」などヒ …



