16歳の時、講談社が初めて新人を募集した「第1回講談社新人漫画賞」に応募すると、見事、入選し、「ピアの肖像」で漫画家デビューを果たした、里中満智子(さとなか まちこ)さんは、その後、高校に通いながら週刊誌に漫画を連載していたそうですが、

やがて、学校側に高校を卒業するまで漫画を休むよう言われると、高校を中退し、単身上京したといいます。

今回は、里中満智子さんの、若い頃(漫画家デビュー~ブレイク前)を時系列でご紹介します。

里中満智子

「里中満智子の生い立ちは?中学時代から独学で漫画を描き出版社に送っていた!」からの続き

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里中満智子は高校2年生(16歳)の時に「ピアの肖像」で漫画家デビューし一躍脚光を浴びていた

中学生の時、周囲が猛反対する中、漫画家になることを決意し、独学で漫画を描いてはせっせと出版社に送っていたという里中満智子さんは、

高校は、徒歩で通える公立高校を選ぶと、アルバイトをしながら、引き続き、漫画を描いては出版社に送っていたそうですが、

16歳(高校2年生)の時、大手出版社である講談社が、初めて新人を募集し、

少年誌・少女4誌合同で、1作だけを入選作としてデビュー作にする

と、発表したことから、

里中満智子さんも、「ピアの肖像」という作品を応募すると、見事、「第1回講談社新人漫画賞」に入選したそうで、「週刊少女フレンド」(1964年39号)に掲載され、そのまま、プロとして漫画家デビューしたそうです。

「ピアの肖像」
「ピアの肖像」

里中満智子は漫画家デビューが決まると猛反対していた母親が手の平返しで応援してくれるようになっていた

すると、少女漫画から1位が出たことや、しかも、16歳ということで、週刊誌が取材に訪れるほど、一躍脚光を浴びたそうで、

漫画を描くことに猛反対していたお母さんも、デビューが決まると、

どうせなら、一流になれ!

と、手のひらを返したように応援してくれるようになったそうです。

ちなみに、デビュー作が掲載されると、

なんでお前が1位なんだ

という手紙もたくさん受け取ったそうですが、

里中満智子さんは、悪く言ってくる人は、たいてい匿名であることに気がついたそうで、卑怯者に負けるのは情けないから頑張ろうと思ったといいます。

里中満智子のデビュー作「ピアの肖像」は憧れの漫画家・水野英子に見せる為に執筆していた

また、このデビュー作「ピアの肖像」は、憧れの漫画家・水野英子さんに送ったファンレターがきっかけの一つだったそうで、

里中満智子さんが、ファンレターに自身が描いたカットを添え、

私の絵でマンガ家になれるでしょうか?

と、質問すると、

水野英子さんからは、

絵だけ見ても分からないので、次の作品ができたら送ってきなさい。読んであげるから

と、返事があったそうで、

水野英子さんに見せようと思って執筆した作品を講談社に応募したのが、この「ピアの肖像」だったといいます。

里中満智子は高校3年生の始業式に出た後に高校を中退し単身上京していた

さておき、こうして漫画家デビューを果たした里中満智子さんは、高校に通いながら週刊誌に連載していたそうですが、

里中満智子さんが通っていた高校は、校則でアルバイトが禁止されていたことから、3年生になる時には、

卒業まで仕事を休んでくれ。卒業してからまた描けばいいじゃないか

と、言われたといいます。

ただ、里中満智子さんは、学歴はさほど必要ではなく、仕事(漫画)こそ一生続ける大切なものだと考え、なによりも、せっかくデビューしたチャンスを逃したくなかったことから、

1965年春、高校3年生の始業式に出た後(17歳)、高校を中退し、単身上京したのだそうです。

(里中満智子さんは、漫画家の世界が、自分の都合で仕事を休んだり、高校を卒業してからまた仕事を下さいと言えるような甘い世界ではないと思ったそうです)

ちなみに、里中満智子さんは、高校在学中は、出来上がった下描き(ネーム)を航空便で編集部に送ると、編集部から電話が入り、セリフの一つ一つに至るまで、電話越しに細かな打ち合わせを行った後、本番の原稿を仕上げ、再び航空便で送っていたそうで、この作業を毎週繰り返していたといいます。

また、当時の大阪では、航空便を受け付けている場所が中崎町など2か所しかなく、受付時間も日中に限られていたそうで、高校在学中の里中満智子さんは自分で持って行くことができず、お母さんに発送を頼んでいたといいます。

里中満智子は17歳の時に上京するとやがては高収入を稼ぐようになっていた

こうして、上京した里中満智子さんは、当初は、文京区音羽の講談社の裏手にあった洋館(旧華族のお屋敷)に身を寄せたそうですが、

(ここは、講談社が締め切りを守れない作家を「カンヅメ」にする場所として使っていたそうです)

やがて、原稿依頼も多く来るようになり、原稿料が1枚千円だったことから、1回16ページの週刊誌の連載を描くと、1ヶ月に6万4千円稼ぐことができたそうで、

(当時は、客室乗務員のお給料が1万7千円だったことから、相当な高収入だったことが分かります)

このお屋敷から近い、雑司が谷(ぞうしがや)のあたりにアパートを見つけ、一人暮らしを始めたのだそうです。

里中満智子は17~18歳の時にヒット作が出ず編集長から「大阪に帰れ」と言われていた

しかし、しばらくすると、初の長編連載が1年も経たないうちに打ち切りになるほか、なかなかヒット作が出ず、

編集長からは、

もっと期待したのに駄目じゃないか。もう大阪に帰りなさい。

などと、言われてしまったといいます。

とはいえ、引っ越し費用もなかったことから、引き下がるわけにはいかず、せっせと漫画を描いて見てもらっていたそうですが、なかなか、雑誌に漫画を載せてもらえなくなり、生活は苦しくなったそうです。

里中満智子はカット(イラスト)の仕事もしていた

そんな中、先輩が、小学館の「小学一年生」などの学年誌のカット(イラスト)の仕事を紹介してくれたそうですが、

カットとは、学習雑誌などに載せる絵を「〇〇を描いて」と指定されて描く仕事で、きちんとした絵を描かなければいけなかったそうですが、当時は、インターネットで簡単に画像を検索できる時代ではなかったため、なかなか大変だったといいます。

特に困ったのは、「機織(はたお)り機」を描いてほしいと依頼された時だったそうで、書店で百科事典の挿絵をじっと見て、機織り機の姿や形を目に焼き付け、急いで帰宅し、忘れないうちに描いたそうで、

(1カット500円だったため、1冊2000円の百科事典は買うことができなかったそうです)

里中満智子さんは、この時のことを、

いつか百科事典を買いたい!がんばろう!と痛切に思った。後年、平凡社の百科事典を手に入れたときは、うれしくて、全巻を抱きしめたかった。

と、語っています。

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里中満智子が22歳の時には仕事が軌道に乗り専属アシスタントを雇うまでになっていた

それでも、そのうち、読み切り作品が次々と採用されるようになり、

「3回程度の短期連載」と言われて描き始めた漫画が、好評で、

もう少し続けてほしい

と、延長を依頼されるようになるなど、仕事量が増えていったそうで、

特に忙しい時期には、スポットでアシスタントを雇うようになり、22歳の時には、週刊誌連載、月刊誌連載、月刊の読み切りが、コンスタントに描けるくらいに仕事が軌道に乗り、

アシスタントに固定給を支払う形で、専属スタッフとして常駐してもらうまでになったのだそうです。

「【画像】里中満智子の若い頃から現在までの漫画作品や著書は?受賞歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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