「ザ・スパイダース」解散後の1971年1月、大野克夫さん、萩原健一一さん、沢田研二さん、岸部修三(現・岸部一徳)さん、大口広司さんらと本格的なロックを目指したバンド「PYG」を結成すると、同年4月10日には、1stシングル「花・太陽・雨」をリリースした、井上堯之(いのうえ たかゆき)さんですが、

すでにスターだった沢田研二さんや萩原健一さんを擁した「PYG」の活動は、硬派なロックファンから、”商業主義”とみなされ、激しいバッシングに遭っていたといいます。

今回は、井上堯之さんの若い頃(「PYG」時代)を代表曲を交えてご紹介します。また、最後には、ディスコグラフィー(シングル、アルバム)もご紹介します。

PYG

「【画像】井上堯之の若い頃は?スパイダースではボーカルからギターに転向!」からの続き

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井上堯之は29歳の時に大野克夫、岸部修三(岸部一徳)、萩原健一、大口広司、沢田研二と「PYG」を結成

井上堯之さんは、「ザ・スパイダース」解散前の1970年末頃から、「ザ・スパイダース」の大野克夫さん、「ザ・タイガース」の岸部修三(現・岸部一徳)さん、「ザ・テンプターズ」の萩原健一さんと大口広司さんと、”ニュー・ロック”(ハードロック)バンドを結成する構想を話し合っていたそうで、

最終的には、沢田研二さんが岸部修三(現・岸部一徳)さんに誘われる形で加わり、同年12月、「ザ・タイガース」が解散した直後、東京・四谷の料亭に6人が集結して、ロックバンド「PYG」を結成しています。

井上堯之らが「PYG」を結成した理由とは?

ちなみに、当時のグループ・サウンズは、世間からは、「髪の長い不良が、遊び半分で女性や子供向けに作っている低俗な音楽」というレッテルを貼られ、

ブームが去る頃には、さらに、「売れることばかりを考えた商業的な音楽」として、本物志向のロックファンからもひどく見下される存在になっていたそうで、

井上堯之さんら”グループ・サウンズの残党”は、そんな汚名を返上するべく、”ニュー・ロック”志向の強いバンド「PYG」を結成したのだそうです。

(「PYG」とは、同じ「渡辺プロダクション」に所属していたアラン・メリルさんのアイディアから名付けられたそうで、”豚のように蔑まされても生きてゆく”という意味で、「PIG(豚)」をもじって「PYG」としたそうです)

井上堯之は30歳の時、「PYG」のステージで猛烈なヤジや罵声を浴びせられていた

こうして、「PYG」は、1971年2月1日、井上堯之さんがリーダーとなって、本格的なロックバンドを目指し、活動を開始すると、同年3月には、京都大学西部講堂で開催されたロックフェス「第1回 MOJO WEST」でデビューしたのですが、

会場に集まった硬派なロックファンにとって、人気絶頂のスターだった沢田研二さんや萩原健一さんを擁した「PYG」は”商業的”に映り、会場は猛烈なヤジと罵声が飛び交う大混乱に陥ったそうで、

井上堯之さんは、自伝「スパイダース ありがとう!」に、

「お前ら変わってない!」「引っ込め!」という客席からのやじに、ショーケン(萩原健一さん)は「うるせー!!」と応酬して、演奏どころではありませんでした。

と、綴っています。

「PYG」

また、続く4月の日比谷野外音楽堂での「日比谷ロック・フェスティバル」でも、観客から「帰れ!」というコールが巻き起こり、ステージには、空き缶、空き瓶、ゴミなどの物が投げ込まれるなど、大騒ぎになったといいます。

というのも、沢田研二さんが「PYG」に参加する際、沢田研二さんの所属事務所の「渡辺プロダクション」は、「PYG」が「渡辺プロダクション」に所属することを条件としていたそうで、

そのため、「PYG」は「渡辺プロダクション」の子会社「渡辺企画」所属となっていたそうですが、

「渡辺企画」は、人気の高かった沢田研二さんと萩原健一さんをメインに売り出したことから、ファンから”商業主義”と猛反発を受けたのでした。

井上堯之は30歳の時、「PYG」として1stシングル「花・太陽・雨」をリリースしていた

それでも、「PYG」は、1971年4月10日、かねてより本物志向を貫いていた井上堯之さん作曲、岸部修三(現・岸部一徳)さん作詞の、ハードロック志向の強い曲「花・太陽・雨」をリリースしており、

井上堯之さんは、自伝「スパイダース ありがとう!」の中で、

よりロック的でアンチ体制的な音楽を目指してPYGはスタートしました。それをバックで支えているのは芸能界で強大な影響力と資金を誇っていた渡辺プロです。大船に乗ったような気持ちで私たちはレコーディングに臨みました。

デビュー曲の「花・太陽・雨」は、レコーディングに費やした時間は実に100時間。録音方法も、ドラムセットにそれぞれマイクをセッティングするという、現在では一般的になっている方法をいち早く導入。テレビ番組の収録でも、そのセッティング以外では出演しない、という条件付きでした。

それは決してわがままではなく、ミュージシャン主導の制作へと、すべてのシステムを変えていこうとしていたのです。その先にあったのは、良いものを作りたいという一心でした。

と、「PYG」を始めた時の気持ちを綴っています。

「花・太陽・雨」
「花・太陽・雨」

ちなみに、この曲は、井上堯之さんの、グループサウンズの枠組みを超え、自らの音楽的エネルギーをすべて解き放ったかのような重厚なサウンドが特徴で、

岸部修三(現・岸部一徳)さんによる哲学的な作詞と共に、その圧倒的なインパクトは、時代を超え、今もなお”知る人ぞ知る名曲”として多くのファンに聴き継がれています。

井上堯之は30歳の時、「PYG」として2ndシングル「自由に歩いて愛して」もリリースしていた

そして、1971年7月21日には、井上堯之さん作曲、安井かずみさん作詞で、2枚目のシングル「自由に歩いて愛して」をリリースしているのですが、

この曲は、重厚なデビュー曲「花・太陽・雨」から一転、軽快なメロディと印象的なギターリフが光る一曲で、シングルらしい聴きやすさを備えつつも、随所にロックの真髄(フィーリング)が息づいており、まさに傑作と呼ぶにふさわしい仕上がりとなっています。

ちなみに、この曲は、井上堯之さんの革新的な作曲&ギター、大野克夫さんのダイナミックなオルガンソロのアンサンブル、沢田研二さんと萩原健一さんのツインボーカルが見事に融合して、「PYG」というバンドの音楽的な本質が凝縮されており、

1971年のロックシーンを象徴する名曲として今もなお語り継がれています。

「PYG/自由に歩いて愛して」

井上堯之が31歳の時、「PYG」は自然消滅

しかし、「PYG」は、1971年9月、ドラムスの大口広司さんが脱退すると、「ミッキー・カーチス&サムライ」のメンバーだった原田祐臣さんが後任として加入するも、

ほどなくして、萩原健一さんと沢田研二さんの個々の活動が忙しくなり、多忙な2人が抜けることが多くなっていったそうで、

1972年11月21日には、シングル「初めての涙」をリリースするも、突破口を見つけられないまま、同年、わずか半年間の活動で正式な解散宣言もしないまま、自然消滅してしまったのでした。

「PYG」のディスコグラフィー(シングル)

それでは、最後に、「PYG」のディスコグラフィーをご紹介しましょう。

シングルでは、

  • 1971年4月10日「花・太陽・雨/やすらぎを求めて」
    「花・太陽・雨」
    「花・太陽・雨/やすらぎを求めて」
  • 1971年7月21日「自由に歩いて愛して/淋しさをわかりかけた時」
    「自由に歩いて愛して」
    「自由に歩いて愛して」
  • 1971年11月1日「もどらない日々/何もない部屋」※「萩原健一+PYG」名義
    「もどらない日々」
    「もどらない日々/何もない部屋」
  • 1972年8月21日「遠いふるさとへ/おもいでの恋」
    「遠いふるさとへ/おもいでの恋」
    「遠いふるさとへ/おもいでの恋」
  • 1972年11月21日「初めての涙/お前と俺」
    「初めての涙」
    「初めての涙/お前と俺」
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「PYG」のディスコグラフィー(アルバム)

アルバムでは、

を、リリースしています。

「【画像】井上堯之の若い頃(井上堯之バンド以降)から死去までの経歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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