「バーニングプロダクション」の社長として、長年に渡り、芸能界で絶対的な権力を誇ってきたと言われている、周防郁雄(すほう いくお)さん。
今回は、そんな周防郁雄さんの若い頃(浜田幸一の運転手時代~「バーニングプロダクション」設立直後)をご紹介します。

周防郁雄のプロフィール
周防郁雄さんは、1941年1月11日生まれ、
千葉県市原市の出身、
学歴は、
市川学園市川高等学校卒業
ちなみに、「周防郁雄」は本名です。
周防郁雄は20歳頃、村田英雄や北島三郎のマネージャー的な仕事をしていた
周防郁雄さんは、当時、千葉県議会議員だった浜田幸一(ハマコー)代議士の運転手を経て、演歌歌手専門のプロダクション「新栄プロダクション」に入社すると、
社長(西川幸男氏)の家に住み込み、年間100日ほど、村田英雄さんとそのバンドの地方営業に同行し、マネージャーの下について仕事を覚えたそうで、
お給料は安かったものの、自身で車を運転して荷物を運んだり、サイン色紙を売るなど、何でもしたそうです。
(村田英雄さんは、もともと浪曲師だったのですが、1958年、「無法松の一生」で演歌歌手としてデビューしています)
すると、1961年には、村田英雄さんが、「王将」(1961年11月リリース)が100万枚を売り上げる大ヒットを記録して、人気歌手の仲間入りを果たし、
翌年の1962年には、北島三郎さんが「ブンガチャ節」でデビューし、同年8月にリリースした2枚目のシングル「なみだ船」が大ヒットして人気歌手の仲間入りを果たしているのですが、
周防郁雄さんは、そんな村田英雄さんや北島三郎さんの面倒を見るのが仕事だったといいます。

「なみだ船」
周防郁雄は30歳の時に「バーニングプロダクション」を設立
そんな周防郁雄さんは、その後、1968年には、「ホリプロダクション」(現・ホリプロ)に転職したそうですが、1971年には、「ホリプロダクション」を退社すると、
同年10月25日、30歳の時には、資本金100万円、社員1人と所属歌手1人(野路由紀子さん)で、芸能プロダクション「バーニングプロダクション(国際プロダクション)」を設立したそうで、
周防郁雄さんと共に活動していたという、作曲家の聖川湧さんは、この時の周防郁雄さんについて、
当時、彼は、一年中四季を通して同じ背広を着て一足の靴で通していました。そのことは強烈に覚えています
とにかく金はなかったけれど猛烈な営業をしていました。たとえば二つのテレビ局にダブルブッキングしたとすると、後から約束した番組でも視聴率が三%でも高ければそちらに仕事を振ってしまう。
その時は不義理しても、後でタレントが売れればいくらでも恩返しはできるからって。そういって、ものすごい勢いで突進していました
と、語っています。
周防郁雄は聖川湧と組んで野路由紀子をヒットさせていた
実は、聖川湧さんは、キャバレーでサックス奏者として活動していた際、レコード店のオーナーの紹介で、高校生の野路由紀子さんと知り合うと、
その歌声に才能を見出して、野路由紀子さんを上京させ、二人三脚の猛レッスンの末、野路由紀子さんをNHKのオーディションに一発合格させたそうで、野路由紀子さんのデビュー曲「私が生まれて育ったところ」も完成させたそうですが、
歌手を育てるための資金やマネジメントのノウハウがなく、知人からの借金でなんとか凌(しの)ぐも、やがては、借金が膨らみ行き詰まってしまっていたそうで、
そんな中、
一緒にやらないか
と声をかけてきたのが、周防郁雄さんだったのだそうです。
そこで、聖川湧さんは、(お金は持ってなさそうだったものの)エネルギーに満ちあふれていた周防郁雄さんに懸け、周防郁雄さんの誘いに乗り、野路由紀子さんは、無事、1971年4月5日にデビューを果たすことができたそうで、
その年の10月25日に、「バーニングプロダクション」が設立されたのでした。
「バーニングプロダクション」という社名の由来は?
ちなみに、「バーニングプロダクション」は、もともと、「国際プロダクション」という名前だったそうですが、法人登記しようとした際、港区内に同じ「国際」とつく芸能プロダクションがあったことから、変更しなければならず、「バーニングプロダクション」としたといいます。
また、「バーニングプロダクション」という社名は、この時、所属していた歌手・本郷直樹さんのデビュー曲「燃える恋人」から「バーニング」と名付けられたと、長年、言われてきたのですが、
周防郁雄さん本人が、
(当時、バーニングに所属していた歌手の)本郷直樹さんのデビュー曲「燃える恋人」からバーニングという名前を取ったという噂があるようですが、事実と違います。
「燃える恋人」の発売のほうが後でした。藤圭子さんを担当していたあるディレクターの方が、バーニングという名前を考えてくださったんです
と、語っており、
実際は、藤圭子さんを担当していたディレクターが考えた名前だったといいます。
周防郁雄は30歳の時に「ペドロ&カプリシャス」の「別れの朝」を私財を投げ売ってプロモーションしていた
さておき、周防郁雄さんは、「バーニングプロダクション」設立と同じ頃、TBSの音楽プロデューサー・渡辺正文氏から、「ペドロ&カプリシャス」の「別れの朝」(1971年10月25日リリース)をプロモーションしてほしいと依頼されたそうで、
周防郁雄さんは、この曲を聴いた瞬間、
絶対売れる
と、確信したそうですが・・・
「報酬なし、経費はすべて自分持ち」という条件付きだったといいます。
というのも、渡辺正文氏は、実績のない周防郁雄さんに対し、
この曲をヒットさせて、男(一人前の業界人)になれ
と、言ったそうで、
これに対し、なるほどと納得した周防郁雄さんは、ただ「男になりたい(認められたい)」という一心で、必死に資金を工面したそうで、結果として多額の借金を抱えることになったそうですが、このプロモーションをやりきったのだそうです。
(当時の芸能界において、実力者の頼みを私財を投げ打ってでも完遂することは、いわば、業界で生きていくための通過儀礼だったそうです)
「周防郁雄の若い頃は?バーニング勢力を拡大し芸能界のドンになった方法とは?」に続く
![]()
TBSの音楽プロデューサー・渡辺正文氏から依頼された「ペドロ&カプリシャス」の「別れの朝」のプロモーションを、私財を投げ売って、見事、成功(大ヒット)させた、周防郁雄(すほう いくお)さんは、 自身が良いと思った曲を、実 …







