TBSの音楽プロデューサー・渡辺正文氏から依頼された「ペドロ&カプリシャス」の「別れの朝」のプロモーションを、私財を投げ売って、見事、成功(大ヒット)させた、周防郁雄(すほう いくお)さんは、

自身が良いと思った曲を、実際に全国で売り切る力を示したことで、業界内の信用を一気に勝ちとり、この成功を足がかりに独自の戦略で勢力を拡大していったそうですが、

今回は、周防郁雄さんが、どのようにして「バーニングプロダクション」の勢力を拡大し、”芸能界のドン”と称されるに至ったかについてご紹介します。

周防郁雄

「周防郁雄の若い頃は北島三郎のマネージャー!バーニングは30歳で設立!」からの続き

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周防郁雄は早くから「音楽著作権」ビジネスへ進出していた

周防郁雄さんは、早くから音楽出版権に目をつけていたそうで、1973年、「バーニングパブリッシャーズ」を設立すると、作詞作曲者から楽曲の権利を預かって管理する、音楽著作権ビジネスに進出し、ヒット曲から生まれる著作権収入を安定的な収益源とする仕組みを作っていたそうですが、

周防郁雄さんは、音楽著作権ビジネスに進出したきっかけについて、

自社のタレント(からのマネージメント収入)だけで食べていくというのは、あまり好きじゃないんですよ。それよりも、よそのプロダクションに所属するタレントのお手伝いをして、プロモーション費や音楽出版権を頂いたほうがいい。それだけだったんです

と、語っています。

(例えば、「サザンオールスターズ」(アミューズ所属)は、自社(バーニング)のバンドではありませんが、初期の楽曲の権利を、傘下の「バーニングパブリッシャーズ」が保有しています)

周防郁雄はのれん分けで系列ネットワークを強固にし影響力を持つようになっていた

ちなみに、「バーニングプロダクション」は、その影響力に比較すると、所属タレントは少なく、驚くほど小規模なのですが、

実は、周防郁雄さんは、優秀な社員を次々と独立させて、グループ企業を築いており、「バーニングプロダクション」単体では小さく見えても、「バーニング」傘下の事務所は何十にも及んでいるそうで、

グループ全体では「ジャニーズ事務所」(現・株式会社SMILE-UP.(スマイルアップ))に匹敵する巨大企業となっているといいます。

つまり、自社を巨大化するのではなく、“周防流”で動く人と会社を外部に増やし(のれん分け)、ネットワークを強固にすることで、一大勢力を形成し、レコード大賞や紅白歌合戦の歌手選考にも影響力を与えてきたそうで、

(バーニング出身のマネージャーのプロダクションや、周防郁雄さんと関係が深いプロダクションは、「バーニング系」(B系)と呼ばれています)

周防郁雄さんは、インタビューで、

ぼくは自分の目の届く範囲しかやりたくないんですよ。マネージャーに対しては『将来、自分が社長になるつもりで頑張ってくれ 』と教えている。だから、みんな独立していくんですが、それは仕方がないことです

と、語っています。

周防郁雄は「サザンオールスターズ」の権利も買っていた

また、周防郁雄さんは、巨大芸能事務所「渡辺プロダクション」から有力なタレントを抱えるマネジャーたちが離れていった際、彼らに資金を提供するほか、楽曲の権利などを手に入れたと言われているのですが、

現在、大手芸能事務所「アミューズ」に所属している、人気バンド「サザンオールスターズ」の初期の楽曲5曲(「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」まで)の音楽出版権も、バーニング傘下の「バーニングパブリッシャーズ」が保有しているといいます。

というのも、周防郁雄さんは、当時、まだ無名だった「サザンオールスターズ」の「勝手にシンドバッド」を、ビクターのディレクターから聴かされて、その才能を確信し、

本来、「サザンオールスターズ」を預かる予定だったプロダクション「りぼん・なかよしグループ」の奥田義行氏に対して、5000万円を支払って権利を譲り受けていたのだそうです。

そして、その後、周防郁雄さんが、「アミューズ」の創業者・大里洋吉氏に「いいグループを見つけた」と連絡し、「サザンオールスターズ」は「アミューズ」所属となったそうで、

周防郁雄さんにとって、「アミューズ」は、「バーニング」のグループ企業という意識だったそうですが・・・

やがて、「サザンオールスターズ」が大ヒットすると、「アミューズ」側から弁護士を通じて、「音楽出版権を返してほしい」と内容証明が届いたそうで、

周防郁雄さんは、そのことについて、

実は、大里君は、ぼくが奥田君に5000万円払ったことを知らない。ただ、弁護士まで頼んで喧嘩してもしかたがないと思ったので、それ以降のサザンの曲は、音楽出版権を持っていません。

アミューズからは、ぼくが出した運営資金は返してもらっていません。アミューズが株式上場したときにも、何の挨拶もなかった。

大里君が上場して豪邸を建てた、という話を聞いたから、当時のうちの役員に『アミューズに、10億円貸してくださいと言って来てくれ』と行かせました。見事に断られてしまいましたけれどもね(笑)

と、語っています。

周防郁雄はテレビ・マスコミの中枢を押さえていた

さらに、周防郁雄さんは、各テレビ局の中枢を押さえると同時に、各プロダクションにもお金を貸す代わりに、出版権・興行権を取得する商法で勢力を拡大し、電波媒体を押さえた後は、活字媒体(雑誌・新聞)にも影響力を及ぼしたそうで、

業界誌「創」(1987年8月号)には、

初めは脅しまがいで、後に会って話し合いをして、ジックリ、わかってもらう。中には、金銭を欲しがる者もいる。その連中には、そういう接し方をして攻略してきたのである。

それでも言うことを聞かないマスコミに対しては、自社タレントの記者会見から排除するという方法で対処してきた

と、書かれています。

周防郁雄はジャニーズ事務所から郷ひろみを獲得していた

そんな周防郁雄さんは、1975年3月には、ジャニー喜多川氏に手塩にかけて育てられ、瞬く間に国民的スターとなっていた郷ひろみさんを獲得しているのですが、

「男の子女の子」
「男の子女の子 / 郷ひろみ」

当時、「ジャニーズ事務所」から看板スターを引き抜く行為は、業界のタブー(掟破り)とされていたことから、”強奪”と言われ、

周防郁雄という男が芸能界のルールを書き換えた瞬間

として、語り継がれました。

ただ、周防郁雄さんは、当時の状況について、

郷ひろみが人気が出たあと、ジャニーさんとトラブルになったらしい。彼がどんな経緯で辞めたのかはよく知りませんが、ぼくは当時、松竹芸能とある大手プロダクションが彼のマネージメントを引き受けることになった、と耳にしたんです。

しかし、いろいろと調べてみたところ、どうもその情報は間違っていて、移籍先はまだ決まっていなかったらしい。ぼくとしても、郷ひろみは是非うちでやりたい、という思いがありました。

と、語っており、

実際のところは、郷ひろみさんとジャニー喜多川氏との間に生じたトラブルがあったといいます。

そこで、周防郁雄さんは、「渡辺プロダクション」の渡辺晋社長と「田辺エージェンシー」の田邊昭知社長の立ち会いのもと、渡辺晋社長の自宅で、「ジャニーズ事務所」の副社長・メリー喜多川さんと、郷ひろみさんの移籍について交渉したそうですが、

周防郁雄さんが、メリー喜多川氏に対し、単刀直入に、

私に(郷ひろみさんを)やらせてください

と、願い出たところ、

メリー喜多川氏は、

いいわよ

と、快諾してくれたそうで、

周防郁雄さんは、「ジャニーズ事務所」に移籍金として2500万円を支払い、郷ひろみさんを獲得したのだそうです。

(ただ、ジャニー喜多川社長は、この郷ひろみさんの移籍で、体調を崩すほどのショックを受けたと言われています)

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周防郁雄は、細川たかし、高田みづえ、小泉今日子も獲得し「バーニングプロダクション」の黄金期を迎えていた

その後、周防郁雄さんは、細川たかしさん、高田みづえさん、小泉今日子さんを獲得し、「バーニングプロダクション」は黄金期を迎えているのですが、3人の獲得経緯を簡単にご紹介しましょう。

細川たかし

周防郁雄さんは、ある時、知り合いから、

北海道のナイトクラブにすごく歌の上手い子(当時24歳だった細川たかしさん)がいる

という情報を得ると、

すぐに、その人を東京に呼び寄せ、スタジオで歌ってもらったそうですが、その歌のうまさに、同席していたレコード会社の人も納得したそうで、

すぐに(1975年4月1日)、細川たかしさんを「心のこり」で歌手デビューさせると、たちまちヒットを記録し、細川たかしさんは、「第6回日本歌謡大賞」で放送音楽新人賞、「第17回日本レコード大賞」最優秀新人賞など、同年の、音楽新人賞を数多く受賞しています。

「心のこり」
「心のこり / 細川たかし」

高田みづえ

また、周防郁雄さんは、細川たかしさんをデビューさせた2年後の1977年には、高田みづえさんを「硝子坂」でアイドル歌手としてデビューさせているのですが、

「硝子坂」
「硝子坂 / 高田みづえ」

実は、周防郁雄さんが、日曜の朝、テレビ番組「君こそスターだ!」を見ていると、高田みづえさんが、「目ン無い千鳥」という大川栄策さんの昔の歌を歌っているのを聞き、飛び起きて、フジテレビに電話していたそうで、

その時には、既に高田みづえさんの事務所は決まっているとの返事だったそうですが、諦めきれず、自ら赴き、譲ってくれるように願い出ると、

その後、自ら、高田みづえさんの住む鹿児島までスカウトしに行き、高田みづえさんを獲得していたといいます。

小泉今日子

さらに、周防郁雄さんは、1981年には、オーディション番組「スター誕生!」でグランドチャンピオンに輝いた小泉今日子さんを獲得すると、翌年の1982年には、「私の16才」でアイドル歌手デビューさせているのですが、小泉今日子さんが「売れる」という確信があったそうで、

「私の16才」
「私の16才 / 小泉今日子」

周防郁雄さんは、

彼女は、最初から自分をどのように売っていくかを考えていましたね。もちろん曲は作曲家の先生に頼みますが、彼女は自分で詞を書くこともあった。また、彼女は偉ぶることなく幅広く誰とでもつき合える。人間的に素晴らしい女性ですよ

と、語っています。

「周防郁雄と藤原紀香は師弟関係も片岡愛之助以降ほぼ絶縁?現在の関係は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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