1966年、近鉄バッファローズに入団すると、1年目にいきなり10勝、2年目から5年連続20勝以上の成績を残し、近鉄一筋20年間の現役生活で、歴代4位となる317勝、歴代1位となる最多無四球試合78を達成するほか、
1968年と1971年にはノーヒットノーランも達成するなど、輝かしい記録を打ち立てた、鈴木啓示(すずき けいし)さん。
今回は、そんな鈴木啓示さんの若い頃(プロ野球現役時代)の活躍や経歴を時系列でご紹介します。

「鈴木啓示の高校時代は1年生でエース!甲子園は?練習試合では江夏豊とも!」からの続き
鈴木啓示はドラフト会議で近鉄バッファローズに2位指名を受けていた
鈴木啓示さんは、育英高校時代から野球界に名を轟かせており、高校2年生の時には、地元・阪神タイガースのスカウトから、高校を中退してプロ入りするよう熱心に勧められたそうで、
その時は、周囲から「高校を卒業してからのほうがいい」と反対に遭い、断ったものの、鈴木啓示さん自身は、阪神への入団を熱望していたといいます。
そんな中、鈴木啓示さんが高校を卒業するタイミングの1965年には、この年から始まった「第1回ドラフト会議」が開催されているのですが、
阪神は指名してくれず、近鉄バッファローズから2位に指名されたものの、あまり期待されていなかったといいます。
鈴木啓示が近鉄バッファローズに入団した理由は800万円の札束だった
しかも、近鉄バッファローズは、当時、「パ・リーグのお荷物」とまで言われた万年最下位のチームだったことから、鈴木啓示さんは、大学進学も考えたといいます。
しかし、ドラフトから数日後、近鉄のスカウトが自宅に来た際、
酒屋を営んでいたお父さんが、酔った勢いで、
息子をプロに入れるなら、なんぼ(契約金を)くれまんねん。
と、尋ねると、
1万円札を100枚で束にした札束を8束(合計800万円)、その場で提示されたそうで、
それを見た鈴木啓示さんは、思わず、
親父、これ(この金額)ならプロ行くわ
と、現金の持つ迫力に圧倒され、入団を即決したのだそうです。
(鈴木啓示さんは、これがもし、小切手だったら入団していなかったかもしれないと語っています)
鈴木啓示は1年目(18歳)からエース格で活躍していた
入団1年目(18歳)にして「このチームを強くしてやろう」と決意していた
こうして、1966年、18歳の時、近鉄バファローズに入団した鈴木啓示さんですが、
近鉄の練習に参加した際、母校・育英高校時代の猛練習に比べると非常に軽いことに驚いたそうで、
こんなん練習ちゃうやん。だから(このチームは)弱いんやな
と、思ったといいます。
また、同時に、
よし、このチームを強くするように頑張ろう
と、思ったそうで、
弱小チームを自分の力で変えていくことにやりがいを見出したのだそうです。
(また、鈴木啓示さんは、中学・高校時代を通じて、他の選手がへばるような練習でも自分は平気だったという自信があったそうで、このこともプロでやっていく決意を支えたそうです)

入団1年目(18歳)にして48試合に登板し、10勝12敗、160奪三振、防御率3.19
すると、鈴木啓示さんは、入団1年目の1966年5月から先発ローテに入って一軍で投げ抜き、将来のエース候補ではなく、いきなり、主力投手として存在感を示したそうで、
このシーズン、48試合に登板し、10勝12敗、160奪三振、防御率3.19という成績を残したのでした。
ちなみに、先輩たちは、新人の鈴木啓示さんに負けても全く平気だったそうで、
鈴木啓示さんは、当初は、
プロというのはそういうもんなんかな
毎日、切り替えていかんといけないのかな
と、思ったそうですが、
よくよく考えてみると、それは逆で、先輩たちがアマチュアなのではないかと気づいたそうで、
鈴木啓示さんは、1年目のシーズンが終わった後、
負け犬根性に染まりたくない
と言う理由で、寮を出て一人暮らしを始めたそうですが、
(しかも、暗黙の了解だった近鉄沿線ではなく、阪神沿線に部屋を借りたそうです)
先輩からは、
生意気や。あいつが投げるときは打たんでええ。エラーしたれ
と、聞こえるように言われたこともあったそうですが、全く気にしなかったそうです。
鈴木啓示は2年目(19歳)の時、44試合に登板し、21勝13敗、投球回数276.0回、奪三振222、防御率2.77という素晴らしい成績を残していた
そんな鈴木啓示さんは、2年目の1967年、19歳の時には、44試合(うち先発34試合)に登板すると、
21勝13敗、投球回数276.0回、奪三振222(最多奪三振)、防御率2.77と、素晴らしい成績を残し、本格的にブレイクしています。
鈴木啓示は3年目にはノーヒットノーランを達成していた
さらに、鈴木啓示さんは、3年目の1968年は、23勝し、投球回数359.0回、305奪三振(最多奪三振)と凄まじい成績を残しているのですが、
8月8日(鈴木啓示さん19歳)の東映フライヤーズ戦では、11奪三振(そのうち10個が空振り)、許した走者は四球の2人だけという圧巻の内容で、ノーヒットノーランも達成しています。
(このノーヒットノーランは日生球場で達成されたのですが、観衆は公式発表で2500人ほど(実際は1000人いたかどうかといわれています)だったといいます)
ただ、鈴木啓示さんはというと、後に、
よく覚えていないんですわ。確か、(主力打者である)張本(勲)さんと白(仁天)さんが故障か何かで出てませんでしたな
と、語っているものの、
この試合の細かい内容(調子、投球の組み立てなど)はあまり覚えていないといいます。
ちなみに、共同通信の記者・小林秀一氏は、この時のことを、「東京プロ野球記者OBクラブ」で、
東映は森安敏明、近鉄は鈴木のエース対決なのに、両チームとも優勝戦線から取り残されていたのだから、閑古鳥が鳴くのも仕方なかろう。
私も記者席で睡魔と闘っていた。昼間、阪神甲子園球場で高校野球大会の取材をして、引き続いてナイターの取材だから、居眠りの1つも出ようというものだ。
ところが、やがて眠気が吹っ飛んだ。6回を終わって鈴木は1本の安打も許していないではないか。ひょっとして、完全試合か!7回の表、東映は先頭打者の毒島章一が苦し紛れにセーフティバントを試みたがファウルになった。東映打線も記録を意識してきたらしい。
鈴木の女房役、児玉弘義もそのころ「無安打」に気付いた。「ベンチの中がざわつき始めましてね。おいおい、ノーヒットやないか、と」
鈴木は9回、最後の打者、代打の安藤順三を一塁のファウルフライに打ち取って、ついに大記録を完成させた。
と、臨場感たっぷりに綴っています。
鈴木啓示は4年目(21歳)の時、24勝で初の最多勝を獲得していた
また、鈴木啓示さんは、4年目の1969年には、24勝で初の最多勝を獲得するほか、投球回数330.2回、286奪三振(最多奪三振)と、またしても凄まじい成績を残し、ベストナインも受賞しています。
鈴木啓示は5年目(22歳)も21勝挙げていた
そして、鈴木啓示さんは、5年目の1970年も、21勝を挙げるほか、投球回数313.2回、247奪三振(最多奪三振)と凄まじい成績を続けており、
1960年代末から1970年代初頭にかけては、まさに”毎年20勝する近鉄の柱”として大活躍したのでした。
鈴木啓示は6年目(23歳)の時、2度目のノーヒットノーランを達成していた
また、鈴木啓示さんは、6年目の1971年にも、21勝を挙げ(1967年から5年連続20勝以上を記録)、投球回数291.1回、269奪三振(最多奪三振)と、近鉄の絶対的なエースとなっているのですが、
9月9日(鈴木啓示さん22歳)には、日生球場で行われた西鉄戦で、2度目のノーヒットノーランも達成しています。
実は、鈴木啓示さんは、この日は、登板前から報道陣に対し、
きょうは見とってください。三振をたくさん取ってみせますから
と、話し、
岩本堯監督には、
監督さん、きょうはホームランが2本出そうです
と、打撃も猛アピールして、異例の「6番・投手」で試合に出場していたそうですが、
鈴木啓示さんは、その宣言通り、マウンドでは、6回まで11奪三振という圧巻の投球を披露すると、
すでに、四球を出していたため完全試合こそ逃すも、7回の守備に向かう際には、ナインに向かって、
ノーヒットノーランを狙う
と、高らかに宣言していたといいます。
そして、見事、自身2度目となる快挙を成し遂げているのですが、
鈴木啓示さんは、試合後、喜びを噛みしめるように、
僕は幸せな星の下に生まれた男です。わが人生はつきっぱなしです
と、語ったといいます。
とはいえ、鈴木啓示さんは、
確かに記録は達成しました。だけど、ノーヒット・ノーランで飯を食ってきたわけやない
とも、語っており、
ノーヒットノーランの記録よりも、長く勝ち続けてきたことに矜持(きょうじ)を見せています。
また、鈴木啓示さんは、1度目のノーヒットノーラン同様、試合の内容についてはほとんど覚えていないそうです。
鈴木啓示は7年目(24歳)~9年目(26歳)も20勝には届かないながら二桁勝利は継続しエースとして活躍していた
その後も、鈴木啓示さんは、
- 7年目の1972年(24歳の時)には、43試合に登板し、投球回数242.0回、14勝15敗、180奪三振(最多奪三振)
- 8年目の1973年(25歳の時)には、30試合に登板し、投球回数171.2回、11勝13敗、119奪三振
- 9年目の1974年(26歳の時)には、36試合に登板し、投球回数229.0回、12勝15敗、141奪三振(最多奪三振)
という成績を残し、20勝には届かなかったものの、いずれも長いイニングを投げて二桁勝利を継続しています。
鈴木啓示は10年目(27歳)には22勝6敗で最高勝率を獲得し、ベストナインにも選出されていた
そんな鈴木啓示さんは、左腕ではトップ級のスピードボールを武器に、パ・リーグの強打者を抑えていたのですが、いよいよ、力任せの投球は限界を迎えていたそうで、
そんな中、1974年、新監督に就任した西本幸雄監督の指導により、力任せの直球主体の投球から、制球、配球を重視する頭脳的なピッチングを構築すると、
プロ入り10年目の1975年、27歳の時には、33試合の登板で、22勝6敗と最高勝率を獲得するほか、ベストナインにも選出され、再び、リーグを代表する投手に返り咲いています。

1975年の鈴木啓示さん(左)と梨田昌孝さん(右)。
鈴木啓示は13年目(30歳)の時、パ・リーグの投手主要3部門(勝利・防御率・奪三振)をほぼ独占する圧巻のパフォーマンスを見せていた
そして、プロ入り11年目の1976年、28歳の時には、18勝15敗、プロ入り12年目の1977年、29歳の時には、20勝12敗で最多勝を獲得すると、
13年目の1978年、30歳の時には、西本幸雄監督の指導のもと会得した”打たせて取るピッチング”が完全に開花し、
37試合(うち先発35試合)登板で、
- 最多勝利:25勝10敗(2年連続、3度目)
- 最優秀防御率:2.02(初)
- 最多奪三振:178個(4年ぶり8度目)
- ベストナイン選出(3年ぶり3度目)
と、勝利数、防御率、奪三振の3つでリーグ1位となり、実質的な「投手三冠」を達成したのでした。
(※当時は奪三振が公式表彰タイトルではありませんでした)

1978年の鈴木啓示さん。
また、鈴木啓示さんは、このシーズン、
- 10試合連続完投勝利(当時の日本記録)
- (年間で37試合に登板し)30試合で完投(パ・リーグのシーズン最多完投記録)
と、自身のキャリアの中でも、最高級のシーズンを送り、「最強の1年」と呼べる圧倒的な成績を残しています。
鈴木啓示は16年目(33歳)の時、二桁勝利が15年連続で途切れ引退を決意するも西本幸雄監督に諭されていた
また、鈴木啓示さんは、1979年と1980年は、故障に苦しめられながら、
- 1979年は、10勝
- 1980年は、14勝
と、二桁勝利を継続しているのですが、
(プロ入り1年目から15年連続二桁勝利)
プロ入り16年目となる1981年、33歳の時には、ついに、10勝を割る5勝11敗となり、引退を決意したといいます。
(チーム(近鉄)も、1979年、1980年は悲願の連覇を達成するも、1981年には最下位に転落)
そこで、シーズン終盤、西本幸雄監督に引退を決意した旨伝えたそうですが、
西本幸雄監督には、
つらいほうの道を選んでみい。楽なほうは、いつでも選べるんや
と、諭されたそうで、
鈴木啓示さんは、引退を思いとどまったのだそうです。
(西本幸雄監督は、チームが最下位に終わったことから、このシーズン限りで勇退しています)
鈴木啓示は17年目(34歳)~19年目(36歳)は再び二桁勝利
こうして、西本幸雄監督の言葉で闘志を取り戻した鈴木啓示さんは、
- 17年目となる1982年は、11勝
- 18年目となる1983年は、14勝
- 19年目となる1984年は、16勝
と、かつてのように毎年20勝とはいかないながら、再び、二桁勝利を継続しています。
また、1982年、1983年、1984年とも、無四球完投はリーグトップ(それぞれ、5回、7回、4回)の成績を残しています。
鈴木啓示は19年目(36歳)の時、通算300勝を達成していた
そんな鈴木啓示さんは、プロ入り19年目の1984年5月5日、36歳の時には、藤井寺で行われた日本ハム戦で、通算300勝を達成しているのですが、
(このシーズン、最終的には16勝しています)
これは、日本プロ野球(NPB)史上6人目で、戦後生まれでは初の300勝投手であり、現在でも”最後の300勝投手”として語られています。

1984年5月5日、通算300勝を達成した鈴木啓示さん。
ちなみに、鈴木啓示さん以前の「通算300勝達成者」は、
- 金田正一さん(通算400勝)※歴代1位
- 米田哲也さん(通算350勝)※歴代2位
- 小山正明さん(通算320勝)※歴代3位
- 別所毅彦さん(通算310勝)※歴代5位
- ヴィクトル・スタルヒンさん(通算303勝)※歴代6位
の5名となっています。
鈴木啓示は300勝時、左足は痛風が悪化、右足はアキレス腱が断絶寸前ほか満身創痍だった
しかし、この頃、鈴木啓示さんの体は、長年の酷使により、すでに限界を超えていたといいます。
というのも、左腕投手にとって生命線である左足は痛風が悪化し、激痛に見舞われていたそうで、食事制限や注射で痛みをごまかしながらマウンドに立ち続けるも、納得のいく”走り込み”ができない日々が続いていたのだそうです。
そして、投手としてのプライドとパフォーマンスを支えてきた練習ができないもどかしさから、
鈴木啓示さんは、親しい記者に対し、
今の投球技術を持ったまま若い体に戻れたらなぁ。物事の本質が分かった時には、もう手遅れなんやな
と、やり場のない思いをもらしたこともあったといいます。
そんな中、プロ20年目となる1985年、近鉄球団は初のサイパンキャンプを決定しているのですが、
鈴木啓示さんは、
19年間貫いてきた調整法を最後の一年も守り通したい
と、国内での残留練習を志願。
しかし、藤井寺球場でのキャンプ中、今度は右足を負傷すると、病院で精密検査を受けた結果、右足のアキレス腱はいつ断裂してもおかしくない状態、さらには、腰は背骨がずれてしまっている状態だったそうで、
医師には、
長期の療養が必要だ
と、強く忠告されたといいます。
鈴木啓示は20年目(37歳)の時、現役を引退していた
それでも、誰よりも走り込みを信じ、自分を律し続けてきた鈴木啓示さんは、医師の忠告には従わず、
300勝を達成した際にも、
300勝は自分にとって通過点。そんなに騒がんといてくれ
と、語っていたのですが・・・
翌年1985年7月9日、日本ハム戦(後楽園)で、3回裏に5点を奪われて降板すると、
(近鉄も3対19と惨敗)
シーズン途中にもかかわらず、翌日10日、突然、引退を表明。
球団は必死に慰留したそうですが、鈴木啓示さんの心は変わらなかったそうで、
鈴木啓示さんは、
投げたらアカン、と言いながら、投げたやないか、と言われたが、やられたらもう性も根も尽きるぐらいの、これ以上は続けたら抜け殻になってしまうくらいやっとったんやと、ご理解いただければと思いますね。
引退を決めたときも、打たれてもクソッという気持ちが出てこなかった。ああ、打ったほうがうまいな、って。こうなったら、もうユニフォームを着ていてはいかんのです
と、語っています。
ちなみに、鈴木啓示さんは、通算300勝のウィニングボールは、惜しげもなくスタンドに投げ入れているのですが、
引退を表明した前日の試合で降板した際、グラブにあったボールは、プロ20年目にして初めて持ち帰ったそうで、20年に渡る現役生活において、これが、唯一、手元に残ったボールだったといいます。
「鈴木啓示の現役時代の成績が凄い!ノーノー2回!通算317勝340完投71完封!」に続く

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1966年に近鉄バファローズに入団すると、近鉄一筋20年で、通算317勝(日本プロ野球歴代4位)、340完投、71完封、防御率3.11という凄まじい記録を残し、2002年には野球殿堂入りを果たしている、鈴木啓示(すずき …







