1963年、野球の名門・育英高校に進学すると、すぐに頭角を現し、1年生にして、夏にはエースとして活躍すると、2年生の夏の甲子園・兵庫県予選での決勝戦では惜しくも敗退するも、
同年秋の近畿大会決勝での向陽高校戦では、延長17回の熱戦を制してサヨナラ勝ちし、快球派左腕として、「大会ナンバーワン投手」「1億円左腕」「優勝候補筆頭」などと呼ばれた、鈴木啓示(すずき けいし)さん。
今回は、そんな鈴木啓示さんの高校時代の活躍を時系列で紹介します。

「鈴木啓示の生い立ちは?右投げから左投げに矯正!育英高校野球部には即合格!」からの続き
鈴木啓示は高校1年生の時に毎日300球投げ続けたことで理想的なフォームを習得していた
第一志望の滝川高校は不合格となるも、育英高校の2次試験を受験して合格すると、野球部の入部テストには即合格した鈴木啓示さんですが、
育英高校野球部では、想像を絶する競争と練習量だったそうで、1年生の投手だけで、約40人のライバルがひしめき合う中、
監督からは、
おまえら新人、これから毎日300球ずつ投げえ
と、驚くような命令が下されたといいます。
また、鈴木啓示さんは、中学まで軟式野球一筋だったことから、重く硬い硬球を握るのはこれが初めてだったそうで、戸惑いながら、言われた通り、毎日300球を投げ続けたそうですが、
4日目のこと、250球を過ぎたあたりで猛烈な疲労に襲われたそうで、
鈴木啓示さんが、
監督、あとちょっと投げたら300球なんですけど、300球投げたらどないしたらいいですか?
と、尋ねると、
後は走っとけ
と、言われたそうで、
鈴木啓示さんは、「走るより投げとる方が楽かな」と考え、嫌々ながらも残りの球を投げ続けたそうですが、
この疲れ果てた状態での投球により、極限まで体がへばり、無駄な力が抜け、図らずも理想的なフォームが形作られていったそうで、
鈴木啓示さんは、
自分の力のある時は力んで投げとるわけ。ボールはごっつい暴れとるわけや、始めの方は。
200球過ぎたあたりからの方が体の力が抜けて上体と下半身のバランスが良くなって、そんな力入れんでもバッターの手前でピュッ、ピュッっと伸びよんねん。そういうボールを投げられるような体の使い方を覚えたわけや。
(300球投げ続けると)へばっとるから力抜けて、ええボールが行きよるんです。理にかなった、体に負担のかからないようなフォームになってきて。
力んで投げとったら肘、肩とか腰とかに何か負担がかかっとったみたい。ところが200球過ぎて、ちょっとセーブした状態の投げ方をしたら「あれっ、ピッチングって力が要らんな」と思うたんです。うまく体を使うたらボールは行くやないかと。
その時に、こつを覚えたんです。ピッチングってタイミングやなと思えた。投げ方の「な」だけでも覚えたかなという感じ。
などと、語っています。
鈴木啓示は高校1年生の夏からエースとして活躍していた
そんな中、40人いた1年生は、次々と、肩や肘を痛めて辞めていったり、野手に転向したそうで、
(最終的には、3年間で最後まで残ったのは鈴木啓示さんともう一人だけだったそうです)
鈴木啓示さんは、1年生にして、夏にはエースとして活躍するようになったそうですが、
鈴木啓示さんは、
私は両親に感謝です。強い体に生んでくれました。耐えられるだけの体力とか、そういうものを生まれながらに備えてもろうとったね。
と、語っています。
鈴木啓示は高校2年生秋の近畿大会決勝戦で延長17回を投げきり向陽高校にサヨナラ勝ちしていた
そして、1964年、高校2年生の夏の甲子園兵庫県予選決勝では、惜しくも滝川高校に0-1で敗退してしまい、残念ながら、甲子園出場はなりませんでしたが、
同年(高校2年生の)秋、近畿大会では、決勝で向陽高校と対戦して、相手のエース野崎恒男さんと壮絶な投げ合いを演じ、延長17回の激闘の末にサヨナラ勝ちして、翌1965年春の選抜大会への出場を決めたのでした。
鈴木啓示は高校3年生春の選抜甲子園の初戦・2回戦で徳島商業高校に敗退していた
そんな鈴木啓示さんは、「大会ナンバーワン投手」「1億円左腕」「優勝候補筆頭」などと、もてはやされる中、周囲の熱狂的な期待を背負い、1965年、高校3年生春の選抜甲子園に出場したそうですが・・・
初戦となる2回戦・徳島商業高校戦で、8イニングを9安打3失点(自責3)と好投するも、利光高明投手に抑え込まれ、1-3で敗退してしまったといいます。
ちなみに、鈴木啓示さんは、この試合で高校野球生活唯一の被弾(ホームラン)を喫したそうで、試合後、全国放送のカメラを前に、
甲子園は負けて大きくなるとこや
と、言い放ったそうですが、
後年、鈴木啓示さんはこの時のことを覚えておらず、記者から聞いたそうで、
そんな生意気なこと、ほんまに言うたんやろか。
と、語っています。
また、鈴木啓示さんは、負けたその日の晩、実家に帰ったそうですが、
お父さんには、
何しに帰ってきたんや。うちの敷居をまたぐな。あれだけ期待されとって大恥かいて、ようぬけぬけと帰ってくるな。今から送ってくわ
と、怒られたそうで、
この時、既に深夜12時を過ぎていたそうですが、鈴木啓示さんは、お父さんの運転で(当時は高速道路がなかったことから)2時間半かけて神戸の下宿先に戻されたといいます。
ただ、車中、お母さんは、泣きながら、
けいちゃん、お父さんは憎くてこんなことしてるん違うよ。あんたのために何とか一人前になってもらいたいと、心を鬼にして言うてんねやから、悪うとったらあかんよ
とフォローしてくれたそうで、
鈴木啓示さんは、
よーし、おやじ見とれよ、これから一人前になったるわ
と、誓ったのだそうです。
鈴木啓示は高校3年生の夏の兵庫県予選決勝で0-1xのサヨナラ負けを喫していた
こうして、リベンジを誓った鈴木啓示さんですが・・・
同年(1965年)、高校3年生の夏、兵庫県予選決勝では、報徳学園のエース谷村智博投手との息詰まる投手戦の末、0-1xでサヨナラ負けを喫してしまったそうで、
結局、鈴木啓示さんが甲子園のマウンドに立ったのは、あの春の一度きりとなったのでした。
鈴木啓示は高校3年生の時、練習試合で大阪学院高校の江夏豊と投げ合っていた
ところで、鈴木啓示さんは、高校3年生の時、大阪学院高校との練習試合で、27奪三振(全アウトを三振で取る計算)を記録しているそうですが、この時、相手のエースとして投げていたのが1学年下の江夏豊さんだったそうで、
鈴木啓示さんは、2024年、落合博満さんのYouTube「落合博満のオレ流チャンネル」にゲスト出演した際、
高校時代はな、阪神に江夏(豊)おるやろ?江夏が大阪学院っていう学校やったんや。それで“大阪でNo.1のピッチャーや”って江夏が自負しとったらしいわ。けど、俺は大阪学院なんて学校は知らんかったんや。
あの当時は浪商か、明星か、興国が名門で、大阪学院から兵庫県の滝川か育英高校に練習試合が申し込まれたみたいやね。その時に江夏が“育英行こう”って言って大阪学院が育英に練習試合に来たんですよ。
“すーちゃん、覚えてるか?”って言うから“いや、俺大阪学院あんまり知らんかったぞ”って言うたら延長15回で0-0でゲームは引き分けやったって言うねん。
それで江夏が「すーちゃん、ワシは15三振取ったんや。すーちゃん、なんぼ三振取った思う?」って言うから覚えてないわって言ったら、「すーちゃん、27(三振)取ったんやで」って。その時に江夏が「俺よりええピッチャーがおるわと思ってそれから目が覚めた」言うて。
と、語っています。
「【画像】鈴木啓示の若い頃が凄い!プロ野球現役時代の経歴を時系列まとめ!」に続く

育英高校時代の鈴木啓示さん。
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