1992年、近鉄バッファローズの監督に就任するも、1年目の1993年には、春季キャンプから指導方針を巡って選手やコーチたちと軋轢(あつれき)が生じ、優勝候補だったにもかかわらず4位に終わってしまうと、
2年目の1994年は2位となるも、3年目の1995年は、最下位に沈む中、シーズン途中で監督を解任にされたという、鈴木啓示(すずき けいし)さん。
そんな鈴木啓示さんは、ネット上では、「ダメ監督」「無能」などと、厳しすぎる声にさらされているのですが、実際のところはどうなのでしょうか。
今回は、鈴木啓示さんの監督時代の成績を時系列でご紹介し、最後に、監督退任後から現在についても簡単にご紹介します。

「鈴木啓示は西本幸雄監督との出会いで本物のエースになっていた!」からの続き
鈴木啓示は45歳の時に近鉄バッファローズの監督に就任
1985年7月11日、37歳で現役を引退した鈴木啓示さんは、その後、NHK解説者やスポーツニッポンでの評論家として活動すると、1992年10月14日、45歳の時、仰木彬監督の後任として、近鉄バッファローズの監督に就任しています。
ちなみに、近鉄の生え抜き選手の監督就任は、小玉明利さん以来26年ぶりだったのですが、
鈴木啓示さんは、現役を引退する際、オーナーの佐伯勇氏から、
鈴木君、将来は監督で必ず帰ってくれ
と、言われていたといいます。
(ただ、佐伯勇氏は1989年に他界されており、鈴木啓示監督を見ることはできませんでした)
鈴木啓示は46歳(近鉄バッファローズ監督就任1年目)の時、春季キャンプで練習方針を巡りコーチや選手と摩擦があった
すると、鈴木啓示さんは、ヘッド兼打撃コーチに藤井栄治さん、投手コーチに佐藤道郎さんと村田辰美さんを招聘し、NHKの野球評論家を務めていた梨田昌孝さんも一軍作戦兼バッテリーコーチとして復帰しているのですが・・・
1993年の春季キャンプでは、鈴木啓示さんが、自身の現役時代の経験から、走り込みを重視し、投手陣に、
ランニングの際はアップシューズではなく、スパイクを履いて走れ
と、指示すると、
立花龍司コンディショニングコーチは、
この時期(冬場)にスパイクを履いてランニングすると足を痛める元になるからやめて欲しい
と、反対。
ただ、鈴木啓示さんは、自身がその方法で結果を出してきたとして、譲らなかったそうで、以降、立花龍司コンディショニングコーチと調整方法を巡って対立することに。
また、自身が成功した道こそが唯一の正解だと信じて疑わなかった鈴木啓示さんの”押し付け”に、選手たちも戸惑ったそうで、
(前任の仰木彬監督は選手の自主性を重んじ、開幕までは調整方法を選手に任せていたそうです)
特に、立花龍司コンディショニングコーチの指導のもと、メジャーリーグ式の科学的トレーニングを採り入れていたエースの野茂英雄投手は、鈴木啓示さんの、「オレの時代はこうだった」という精神論(成功体験)に反発したといいます。
(鈴木啓示さんは、メジャーリーグには興味も関心もなかったと言われています)
鈴木啓示は46歳(近鉄バッファローズ監督1年目)の時、優勝候補からまさかの4位に終わっていた
そんなギクシャクする中、開幕を迎えると、やはり、チームは開幕ダッシュに失敗して4月は6勝7敗と負け越し、6月には3位まで上がったものの、7月以降は負け越しが続き、
結局、1年目のシーズンは、66勝59敗5分という成績で、優勝候補からまさかの4位に沈み、1987年以来のBクラスとなってしまったのでした。
ちなみに、このシーズン、藤井栄治ヘッド兼打撃コーチが、開幕5試合目(4月20日)にして、体調不良で退団しているのですが、
実は、全く折れない鈴木啓示さんに、藤井栄治ヘッド兼打撃コーチが耐えられなくなっての退団だったといいます。
そして、立花龍司コンディショニングコーチも、この年限りで退団しています。
(立花龍司コンディショニングコーチの退団により、野茂英雄投手や吉井理人投手など投手陣と、鈴木啓示さんの溝はさらに深まったと言われています)
鈴木啓示は47歳(近鉄バッファローズ監督2年目)の時、首位に7.5ゲーム差をつけられ2位(オリックスと同率)
また、近鉄監督就任2年目の1994年、西武との開幕戦では、野茂英雄さんが8回までノーヒットノーランの快投を見せ、近鉄が3-0とリードしていたのですが、
9回1死満塁となると、鈴木啓示さんは、野茂英雄さんを交代し、赤堀元之投手を投入します。
しかし、なんと、赤堀元之投手は、伊東勤選手に逆転満塁本塁打を浴びてまさかの逆転負けとなり、最悪のスタートとなったのでした。
(実は、赤堀元之投手は、試合前の鈴木啓示さんのコメントを鵜呑みにし、準備不足のまま登板していたのだそうです)
すると、これが尾を引き、チームは6月までBクラスに沈んだのですが、それでも、鈴木啓示さんが打線の若返りと再編を断行すると、7月以降は、若手の起用が機能して打線の形が固まり、貯金21を稼ぐ猛追で、一気に優勝戦線へと浮上。
ただ、後半戦、優勝争いの中、エース・野茂英雄投手が右肩痛で投げられなくなったことで、優勝争いから脱落し、最終的には、2年目のシーズンは、68勝59敗3分という成績で、オリックスと同率2位に終わっています。(首位の西武とは7.5ゲーム差)
ちなみに、このシーズンオフにも、
- 阿波野秀幸投手をトレードで読売ジャイアンツに放出
- 金村義明選手はFA権の行使を宣言して中日ドラゴンズに移籍
- 野茂英雄投手はロサンゼルス・ドジャースへ移籍
と、主力選手たちが、鈴木啓示さんとの確執から次々とチームを去っています。
鈴木啓示は48歳(近鉄バッファローズ監督3年目)の時、開幕直前にエース候補・吉井理人投手をトレードで放出していた
そんな中、鈴木啓示さんは、近鉄監督就任3年目の1995年には、投手コーチに米田哲也さんを招聘するのですが・・・
なんと、開幕直前には、前年1994年に先発投手として7勝を挙げた吉井理人投手をトレードで放出しています。
実は、吉井理人投手は、前年の1994年9月25日のロッテ戦に先発した際、初回に5点の援護をもらうも、4回に突如4連打(2被弾)を浴びて失点しているのですが、
まだリードしている中、鈴木啓示さんが、4回途中で降板を命じると、リードしている展開での無念の交代に激昂し、持っていたボールをコーチに返さず、マウンド上で蹴り飛ばしており、
このマナーを欠いた行為により、翌26日には、球団から「即刻帰阪(2軍落ち)」を命じられていたのでした。
しかも、吉井理人投手は、球団からは「騒ぎにならないよう、チームが出発した後にこっそり帰れ」と指示されていたにもかかわらず、
チームがバスで出発する際、わざわざ、チームメイトに「俺、2軍や」と告げ、手を振ってバスを見送るという大胆な行動に出たのです。
この一連の行動により、吉井理人投手はシーズン残り試合を1軍から干されることになり、翌1995年の開幕直前、鈴木啓示さんとの確執も相まって、ヤクルトスワローズへの電撃トレードが決定したのでした。
ちなみに、吉井理人投手は、
もう、あれであのシーズンは気持ちが切れました。そんなんしたから、トレードに出されたんやと思います
と、語っています。
鈴木啓示は48歳(近鉄バッファローズ監督3年目)の時、シーズン途中で近鉄バッファローズの監督を解任されていた
さておき、このシーズンは、前年、打点王の石井浩郎選手が、右かかとの亀裂骨折をおして出場を続けるも、6月8日を最後に離脱すると、
その3日後には、2年連続本塁打王だったラルフ・ブライアント選手もケガで離脱して、そのまま退団してしまったことから、打率・得点ともリーグ最下位に沈み、7月中旬には、最下位に転落。
そんな中、鈴木啓示さんは、8月8日夜、遠征先を訪ねてきた球団社長に、
これ以上、あなたの顔に泥を塗れない(解任通告)
と、告げられたのでした。(表向きは休養)
また、鈴木啓示さんは、
わしは(恩師の)西本(幸雄)さんにはなれんかった
と、つぶやいたと言われています。
ちなみに、8月9日からは、水谷実雄ヘッド兼打撃コーチが監督代行となっているのですが、
吉井理人投手とトレードで入団した西村龍次投手が5勝止まりで、10勝したのは、先発2番手の山崎慎太郎投手と、中継ぎの佐野重樹投手だけと、投手の柱を失ったうえ、
石井浩郎選手とラルフ・ブライアント選手の離脱により、チーム本塁打は前年の169本から105本と激減し、近鉄は、最下位に終わっています。
鈴木啓示の監督時代の成績は?
それでは、ここで、鈴木啓示さんの監督時代の成績の一覧をご紹介しましょう。

鈴木啓示さんの監督時代の成績。
鈴木啓示の監督時代の選手のコメントは?
ところで、鈴木啓示さんが監督だった時代、阿波野秀幸投手、金村義明選手、小野和義選手、吉井理人投手、野茂英雄投手と、仰木彬監督時代に活躍した、個性の強い選手たちが、鈴木啓示さんとの確執から次々と近鉄を去っているのですが、
鈴木啓示さんは、2024年3月15日、落合博満さんのYouTube「落合博満のオレ流チャンネル」に出演した際、
落合博満氏に、
(現役時代の走り込みを)監督になってから実行したわけですね?
と、選手への指導方針を尋ねられると、
選手にやっぱりうまくなってもらいたい思うやんか。だから何とか1つでも勝ってもろて、奥さん喜んでくれたり、子供も喜んでくれたりしたら嬉しい思うやんか
と、選手のためを思い、指導していたことを明かしています。
また、選手たちには、なかなか、その思いは伝わらなかったそうで、
逆にそれが裏目になって、俺が一方的に説教じみて言うとるみたいに思われたんや。持っていき方が下手やねん
俺がモノ言うたら説教してるみたいに言われんねんて
(中日で監督を務めた落合博満氏に)あんたみたいに柔らかいところがあったらええねんけどね
と、語っています。
ちなみに、そんな鈴木啓示さんについて、
阿波野秀幸さんは、
近鉄にとって、鈴木さんっていうのは、歴史の中ではシンボルなんだよ。だから、周りのコーチたちも、指南役というよりは、お伺いを立てるような形だったから、その辺で心と心のつながり、っていうのかな、だんだん薄れていったような気がする。
その辺は、他の人たちの話を聞いても、そう思った。仰木さんの時は、チームも強くて、みんな、のびのびしているような空気もあった。そういう時代の後だっただけに、よけいにね。
活躍できない選手の起用は当然減るのですが、自分では行けると思って一軍に合流しても、試合に出してもらえないで二軍に戻ったりすると、気持ちがチームの為ではなく自分の為にやろうと傾いていきます。
主力だったのに放出されたのは自分だけではありませんから、どうしても(監督との関係が)そうなります。新しい監督が新しい戦力を好むのは分かるのですが、近鉄のみんながバラバラになったのは寂しかったです。
近鉄はあそこで変わりました。ノリ(中村紀洋さん)や大村(直之さん)が出てきたのもあの頃じゃないですか。
佐野慈紀さんは、
それまでのチームの雰囲気がガラリと変わりました。ある先輩が、投手陣の総意として鈴木監督に意見を伝えてくれたのですが、すぐにファームへ落とされ、トレードなどで阿波野さんや吉井理人さんらがいなくなりました。
チームは下位に低迷し、みんなモチベーションが下がりましたね。でも、僕が引退して評論家になった後、鈴木さんと少しだけ話をして、相手はどうかわからないけど、僕の中のわだかまりはなくなりました。
吉井理人さんは、
監督が直接言ってくれたらいいんですけど、いつも何か言われるのは、間接的に言われたんでね
石井浩郎さんは、
ホントにぶつかっていましたよ。93年までは立花がいたから、立花が間に入ってうまいこと、やってくれていたんですよ。立花も大変だったと思いますよ。でもそれで立花は(近鉄を)出されちゃったんでしょ? それからはもう“直接”ですよ。
メジャーというか、今、世界的にはこういう流れだよ、というトレーニングを立花が導入して、ピッチャー陣はみんな、それに心酔していたときにまた、昭和のやり方に戻っちゃったので、それこそみんな、もうガクッとなったわけですよ。
野手に対してはあまり鈴木さんも言ってこられなかったので、そんなに別に何ともなかったんですが、傍から見ていてもピッチャーは大変だな、という風には見ていました
阿波野にしても、あれだけ投げまくって、あの『10・19』とか、近鉄に貢献してきたのに、なんかお払い箱みたいな扱いでしょ?
と、やんわり語っているのですが、
金村義明さんは、自著「勝てる監督 負けるボス」で、
鈴木啓示さんが監督時代、采配や選手交代で、名前ではなく「アイツ」や「ソイツ」と呼ぶなど態度が良くなかったことを明かしつつ「最低の監督」と評しています。
また、当時、ロッテのGMだった広岡達朗さんも、
近鉄はいい選手が揃っているのに、監督と選手の間がうまくいっていないという話が絶えない。あれじゃダメ
と、酷評しています。
鈴木啓示の監督退任後~現在は?
そんな鈴木啓示さんは、監督退任後は、長らく、NHKの野球解説者やスポーツニッポンの野球評論家として活動しており、
2020年にはNHK野球解説者を引退するも、スポーツニッポンでの評論活動は、2026年現在も続けています。
また、野球関連の対談やインタビューに加え、「名球会チャンネル」をはじめとするYouTube番組にも積極的に出演するなど、多方面で発信を続けています。
(2022年には学生野球資格を回復し、高校生や大学生などのアマチュアへの指導が可能な状態となっています)
「鈴木啓示と野茂英雄の確執の原因は?現在は和解している?」に続く
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1992年、近鉄バファローズの監督に就任すると、1年目の春季キャンプで、自身の信念を強制するトレーニングを課したことで、選手やコーチたちと軋轢(あつれき)が生じ、対立状態になっていたという、鈴木啓示(すずき けいし)さん …








