弱小球団だった近鉄バッファローズで、入団2年目の1967年から入団6年目の1971年まで、5年連続で20勝以上を挙げていた、鈴木啓示(すずき けいし)さんですが、
1974年、西本幸雄監督が近鉄の監督に就任すると、しつこいほどにその投球スタイルに苦言を呈されたといいます。
今回は、鈴木啓示さんと西本幸雄監督の師弟関係を、出会いから引退まで、時系列でご紹介します。

「鈴木啓示の現役時代の成績が凄い!ノーノー2回!通算317勝340完投71完封!」からの続き
鈴木啓示は入団7年目には二桁勝利を維持するも思うように勝てなくなっていた
鈴木啓示さんは、大きく振りかぶってから投じる高めの剛速球が持ち味で、
入団2年目の1967年から入団6年目の1971年まで、5年連続で20勝以上するほか、入団2年目の1967年から入団7年目の1972年まで、6年連続でリーグ最多奪三振を記録するなど、まさに、パ・リーグを代表する怪物だったのですが、
1972年(14勝15敗)と1973年(11勝13敗)は、二桁勝利ながら、20勝に届かず、しかも負け越したことが、鈴木啓示さんは受け入れがたかったそうです。
それでも、鈴木啓示さんは、「力で押す」自身の投球スタイルを変えるつもりはなかったといいます。
鈴木啓示が入団9年目の時、名将・西本幸雄が近鉄バッファローズの新監督に就任
そんな中、鈴木啓示さんが入団9年目となる1974年、阪急ブレーブスを5度の優勝に導いた名将・西本幸雄監督が、近鉄バッファローズの監督に就任しているのですが、
西本幸雄監督は、万年Bクラスの近鉄バファローズを見た印象について、
近鉄と言うチームは、阪急と比べたら大人と子供くらいの差がありました。梨田(昌孝)や栗橋(茂)、羽田(耕一)など素質のある選手はいましたが、野球を知らなかった。そして鈴木啓示が1人で勝手に投げていたんです
と、語っていたといいます。
鈴木啓示は西本幸雄監督に投球スタイルを変えるように助言されるも反発していた
また、西本幸雄監督は、監督就任早々、エースである鈴木啓示さんに、いきなり、
スズ、お前は20勝しとってもつまらんピッチャーやな。同じ20勝するんでも負け数をひとケタにせんと、ほんまのエースとは呼ばれへんぞ
と、苦言を呈したといいます。
ただ、鈴木啓示さんにしてみると、弱小チームでの20勝は、誇れる記録と言っても過言ではなく、負け数が多いのは、打てない打線の問題であり、なんとかしなければならないのは自分ではない、という思いがあったそうで、激しく反発したそうですが・・・
それでも、西本幸雄監督からは、その後も、
そろそろテクニックを覚えたらどうや。ストレートを思い切り投げて、打たれても本望なんて、マスターベーションや。20勝するのはええけど、負けを1ケタにしてくれ。そうしないと強いチームのエースにはなれん
直球一本槍(やり)ではなく、配球やコントロールを考えたらどうや
阪急の選手はお前を怖がってへんぞ。ピッチングは力だけやないんや。足立(光宏氏、阪急黄金時代の名投手)のような柔軟性も必要やぞ
力任せじゃあかん。そろそろ技を使え
遅い球でも、アウトにできる球があればいいんや
などと、毎日のように苦言を呈されたそうで、
鈴木啓示さんは、
阪急みたいな強いチームと一緒にせんでくれ
と、反発心は募る一方だったといいます。
鈴木啓示は阪神の吉田義男監督に自ら電話してトレードを頼んでいた
そんな中、1974年のオフには、主砲の土井正博選手がトレードに出されたことから、鈴木啓示さんは、「次は自分の番」だと思い、阪神の吉田義男監督に、自ら電話をかけてトレードを志願したそうで、
当初、吉田義男監督も、
よし、江夏(豊)と交換しよう
と、言ってくれたそうですが・・・
数日後には、
近鉄があんたを出さん。今回は無理やな
と、断りの電話があったそうで、
このトレードは、近鉄側の拒否により、実現しなかったのだそうです。
鈴木啓示は西本幸雄監督の粘り強さに根負けする形でアドバイスに耳を傾けていた
そして、西本幸雄監督からは、その後も、同じことを言われ続け、
翌年1975年のオープン戦では、
(同じ左腕で阪神の山本和行投手を見て)あいつを見習え
と、言われたそうで、
鈴木啓示さんは、
格が違うやろ
と、試合後、さっさと帰宅したそうですが・・・
それでも、西本幸雄監督はあきらめなかったそうで、
ついに、鈴木啓示さんの方が、根負けして、
これだけそっぽ向いとるのに、ここまで言わせるのはオッサンに申し訳ないな
そこまで言うんやったらいっぺんやってみたろうか
と、思うようになったそうで、
西本幸雄監督の言うことに耳を傾けてみようと思ったのだそうです。
鈴木啓示は西本幸雄監督のアドバイスを受け入れて投球スタイルを変革し22勝6敗の成績を挙げていた
こうして、鈴木啓示さんは、
杉浦忠投手コーチからの、
力で投げるんやったら相撲取り呼んでこい(リリース以外は力を抜けという意味)
という助言や、西本幸雄監督の地道なアドバイスに耳を傾けるようになり、
「渾身(こんしん)の球であれば打たれても本懐」という独自の美学から、「遅い球を使い、チームが勝つために抑える」という効率重視の思考へと転換し、
同時に、(鈴木啓示さんの持ち味でもあった)力任せともいえる豪快なフォームから、緩急と制球力を重視したノーワインドアップへとフォームを修正すると、
結果、1975年は、22勝6敗、防御率2.26、奪三振数107という成績を残しており、
投球スタイル変革前の1971年に残した、21勝15敗、防御率3.22、奪三振数269という成績と比べると、三振数は半分以下に減りながらも、防御率や勝率は劇的に向上したのでした。
(20勝を達成したうえ、西本幸雄監督が求めた「一桁の負け数」を達成したのでした)

1975年、西本幸雄監督(左)と鈴木啓示さん(右)。
ちなみに、西本幸雄監督は、鈴木啓示さんを叱り続けた理由について、
チームの顔であるエースを叱り、それに奮起するエースの姿を見れば、ほかの選手たちに緊張感が生まれる。そう思って、スズには厳しい言葉をかけたんや。
スズは、それまでもパ・リーグを代表する投手としてタイトルも取り、記録もつくっているけれども、もっともっと、すごい投手、大きな投手になってもらいたかった
と、語っているのですが、
鈴木啓示さんも、
勝つ喜びを知ったチームに勢いが出ると、本当に野球というのはみんなで力を合わせて勝つスポーツやと改めて思うんですね。チームだけではなく、私も変わった。
速球をど真ん中に投げ込んで三振を取るだけがエースやない。遅い球でも抑えられるボールがあればいい、という意識は西本さんに出会うまでまったくなかったですから
と、語っています。
鈴木啓示は西本幸雄監督の辞意を感じ留任するよう直訴していた
また、西本幸雄監督のもくろみ通り、「野球はみんなで勝つスポーツ」だと気づいた近鉄は、1975年後期には、ついに、球団史上初となる優勝を果たし、これをきっかけに、強豪に生まれ変わっているのですが、
(現在と違い、当時のパ・リーグは1シーズンを前後期で分けて勝率1位を競い、前期1位と後期1位がプレーオフでリーグ優勝を決めるという方式でした)
1978年9月23日、阪急ブレーブスとの最終戦(藤井寺決戦)、「勝てば後期優勝」のこの試合において、1回裏に1点先制するも、阪急に逆転され、結果、鈴木啓示さんは、山田久志投手との投げ合いに敗れてプレーオフ進出を逃してしまい、
試合後、西本幸雄監督が辞意をほのめかすと、
鈴木啓示さんは、
監督をやめないでくれ! オレたちを見捨てないで下さい
と、直訴。
すると、他の選手もそれに賛同したことから、西本幸雄監督は留任したそうで、翌年の1979年には、悲願のリーグ優勝を果たし、翌々年の1980年には連覇も達成したのでした。
鈴木啓示は1979年の日本シリーズ第2戦で完封勝利し西本幸雄監督に「見たか、おやじ!」と言い放っていた
そんな中、1979年の日本シリーズでは、鈴木啓示さんは、長年チームを支えてきたエースの自分が、当然、第1戦の先発だと確信していたそうですが、
蓋を開けると、先発を告げられたのは若手の井本隆投手で、しかも、井本隆投手が5日も前に言われていたことを知ったことから、
何やねんこれ、俺が第1戦いくんちゃうんかい
と、猛烈な悔しさがこみ上げてきたそうで、
第2戦のマウンドに上がった際には、鈴木啓示さんの心の中にいた敵は相手チームの広島打線ではなく、味方ベンチに座る西本幸雄監督だったそうで、
やっぱり鈴木だと思わせたい
と、その一心で腕を振り、見事に完封勝利。
そして、鈴木啓示さんは、試合後のヒーローインタビューでは、興奮のあまり、公共の電波を通じて、
見たか、おやじ(西本幸雄監督のこと)
と、言い放ったのだそうです。
(ただ、鈴木啓示さんは、後に、「公共電波を使うて大人げないこと言うて、今思い出しても寒気がするわ。えらいあほなこと言うたもんやな。」と振り返っています)
ちなみに、後年、西本幸雄監督は、鈴木啓示はさんを第1戦の先発に起用しなかった理由について、
スズ、おまえはな、これ(持ち上げるしぐさ)したらあかんねん。どっちか言うたら、かーんとたたいといた方が牙をむきよんねん。その方がおまえはええねん
と、言っていたそうで、
鈴木啓示さんは、
私の性格までつかんでくれてはった。さすが大監督や。
と、語っています。
(とはいえ、このシリーズで近鉄は日本一になることはできませんでした。)
鈴木啓示は1980年の日本シリーズ第7戦では西本幸雄監督に持ち上げられるも敗戦していた
そして、翌年の1980年には、再び、広島との日本シリーズとなり、
近鉄は、鈴木啓示さんの力投で2勝し、第5戦が終わった時点で3勝しており、日本一に王手をかけていたのですが、第6戦目で追いつかれ、3勝3敗。
そんな中、日本一がかかった日本シリーズ第7戦で、鈴木啓示さんは、西本幸雄監督に、
おいスズ、このシリーズはお前が中心や。シーズン中は一度もさせたことがないが、今日はリリーフでいく。頼むぞ
と、告げられたそうで、
この時は、叩かれるのではなく、全幅の信頼を寄せられ、持ち上げてもらったそうですが・・・
結果はリリーフで打たれ、敗戦しており、
鈴木啓示さんは、後に、
西本監督は日本シリーズに8回出て、日本一に1回もなってない。近鉄で何とか日本一になってもらいたかった。申し訳なかったな。
私は持ち上げられた時は結果が悪い。甲子園で選抜大会に出た時もそうやけど、もてはやされるとあかんねん。
と、語っています。
鈴木啓示は西本幸雄監督の「つらいほうの道を選んでみい」の言葉で引退を思い留まっていた
実は、チームが連覇した1979年と1980年、鈴木啓示さん自身は故障を抱えていたそうで、
1981年のシーズン終盤の9月23日のロッテ戦、早々にノックアウトされると、引退を決意していたといいます。
そこで、鈴木啓示さんは、宿舎のホテルで、ユニフォーム姿のまま西本幸雄監督に引退の意思を伝えたそうですが、
西本幸雄監督には、
お前の目を見たら、そんな辞めたそうな顔してへん。つらいほうの道を選んでみい。楽なほうは、いつでも選べるんや
と、言われたそうで、
鈴木啓示さんは、引退を思い留まったのだそうです。
(ただ、近鉄は最下位に終わり、このシーズンで西本幸雄監督は勇退しています)
すると、1982年と1983年は、無四球完投でリーグトップに立ち、1984年5月5日には、通算300勝を達成しており、
鈴木啓示さんは、
西本さんが来なかったら、200勝くらいで引退してたんじゃないですか。西本さんの厳しさ、熱さに打たれ、また粘れたというのはあったと思いますよ
その言葉がなかったら私は300勝もできてなかった
などと、語っています。
鈴木啓示の引退(引き際)のタイミングを西本幸雄は理解していた
そんな鈴木啓示さんも、1985年には、体調の悪化などもあり、7月9日、日本ハム戦で、3回裏に5点を奪われて降板すると、
(近鉄も3対19と惨敗)
今度こそ、本当に引退を決意。
そして、評論家をしていた西本幸雄監督のもとに、引退する旨の報告に行くと、
今度は、西本幸雄監督は、
もう勝負する目やないな。ご苦労さん
と、言ったといいます。
「鈴木啓示はダメ監督だった?監督時代の成績は?選手のコメントは?現在は?」に続く
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