1981年、21歳の時、「ミスティ・トワイライト」で歌手デビューすると、1983年、22歳の時、映画「フラッシュダンス」の挿入歌をカバーした「ホワット ア フィーリング〜フラッシュダンス」が大ヒットを記録し、たちまちブレイクした、麻倉未稀(あさくら みき)さん。
そんな麻倉未稀さんは、幼い頃は音楽に恵まれた家庭で育つも、特に、歌うことが好きというわけではなかったそうですが、中学1年生の時、友達に頼まれて一緒に渡辺プロダクションが運営していた「スクールメイツ」のオーディションを受けると、合格し、歌うことの楽しさに目覚めたそうで、
この時は、母親の反対で断念するも、中学2年生の時、母親に内緒で、歌謡学院のオーディションを受け、またしても合格すると、最終的には、歌謡学院に通うことを許してもらったといいます。
今回は、麻倉未稀さんの、幼少期(生い立ち)から上京後に雑誌「装苑」のモデルとして活動するまでをご紹介します。

麻倉未稀のプロフィール
麻倉未稀さんは、1960年7月27日生まれ、
大阪府大阪市の出身、
身長160センチ、
血液型はB型、
学歴は、
駒沢学園女子高等学校卒業、
ちなみに、本名は「高橋徳子(たかはし のりこ)」、旧姓名は「村上徳子(むらかみ のりこ)」とのことですが、
ミス・ユニバース近畿地区代表で現在もモデルとして活動しているお姉さんも、「高橋(村上)美和子」と名乗っていることから、結婚前の旧姓という意味ではなく、両親の関係で名前が変わった可能性が高いと考えられます。

麻倉未稀さんの姉・高橋美和子さん。
麻倉未稀が幼い頃はお転婆な女の子だった
麻倉未稀さんは、新聞記者だったお父さんのもと、2人姉妹の次女として誕生すると、3歳頃までは、一人でどこへでも行ってしまうお転婆な女の子だったそうで、
お姉さんによると、どこかへ迷子にならないよう、親にロープで繋がれていたほどだったといいます。
また、麻倉未稀さんは、幼い頃は、登山が好きだったお父さんに、しばしば山に連れて行かれていたそうですが、
山道ですれ違う人たちに「こんにちは、こんにちは」と挨拶するのが楽しくて仕方がなかったそうで、活動的で人懐っこい子供でもあったそうです。
麻倉未稀は小学校に入学した頃、母親からピアノを習わされるようになっていた
そんな麻倉未稀さんは、お母さんの意向で、幼い頃からオルガンを習っていたそうですが、
小学校に入学したある日のこと、自宅に、突然、アップライトピアノが運ばれてきたそうで、そこから急に、ピアノを習わされることになったそうで、
(お母さんの実家はもともとバイオリンやピアノを嗜(たしな)む家庭だったそうですが、お母さん自身は、戦時中だったため習うことができず、子どもたちには音楽をやらせたいと思っていたのだそうです)
あまり練習が好きではなかった麻倉未稀さんは、しばしば、ピアノの先生に怒られていたそうです。
ただ、ピアノの発表会が近づくと、急に張り切って練習に励んだそうです。
麻倉未稀は少女時代、音楽に恵まれた環境で育っていた
また、麻倉未稀さんの自宅にはステレオがあり、いつも映画音楽などがかかっている、音楽に恵まれた環境で育ったそうで、
麻倉未稀さんが初めて買ったレコードは、1971年、11歳の時、「トワ・エ・モワ」のシングル「虹と雪のバラード」(1971年8月25日リリース)だったそうです。

「虹と雪のバラード」
麻倉未稀は中学時代、姉の影響で洋楽を聴くほか「チューリップ」のファンだった
そんな麻倉未稀さんは、同じ頃、お姉さんの影響で、「クィーン」、レイ・チャールズ、スティーヴィー・ワンダーなどの洋楽を聴き始め、
中学生になると、「ビートルズ」も聴くようになったほか、フォークグループ「チューリップ」のファンで、友達と2人で、大阪の厚生年金会館で開催されたコンサートに行ったこともあったそうです。
1972年、24歳の時、「チューリップ」として「魔法の黄色い靴」でメジャーデビューするも、レコーディングの翌日にメンバー2人が脱退し、やむなく解散したという、財津和夫(ざいつ かずお)さんですが、 1973年、新生「チュ …
麻倉未稀は中学1年生の時に「スクールメイツ」のオーディションに合格し歌を歌うことに興味を持ち始めていた
そんな中、麻倉未稀さんは、中学1年生の時、歌を歌うことが大好きな友達がオーディションを受けることになり、一人で受けるのは嫌だから一緒に受けてほしいと頼まれたそうで、
渡辺プロダクションが運営していた「スクールメイツ」のオーディションを受けに行くと、見事、合格。
この体験により、麻倉未稀さんは、歌うことで自分らしさを表に出すことの解放感と充足感を感じたそうで、
ちょっと面白いかも
と、歌うことに興味を持つようになったそうです。
麻倉未稀は中学2年生の時に歌謡学院のオーディションを受け合格していた
ただ、この時は、お母さんに反対されたことから芸能界入りを断念。
それでも、歌う楽しさに目覚めていた麻倉未稀さんは、中学2年生の時、お母さんに内緒で歌謡学院のオーディションを受けに行くと、またしても、見事、合格したそうですが・・・
やはり、お母さんには反対されたそうです。
そこで、麻倉未稀さんは、お母さんと一緒に断りに行ったそうですが、
その時、スタッフから、オーディションに受かった人は月謝が1ヶ月無料になることやオーディションに落ちた人もいることを聞いたお母さんが、申し訳なく思い、「1ヶ月だけ」という約束で通うことを許してくれたのだそうです。
こうして、晴れて歌謡学院に通い始めた麻倉未稀さんは、レッスンを重ねるごとに、歌うことの楽しさにのめり込んでいったそうで、
実は、この頃、麻倉未稀さんは学校は不登校気味だったそうですが、歌謡学院だけはしっかり通い続けていたことから、お母さんには、呆れられたそうですが、
やがて、お母さんも、そんな麻倉未稀さんの姿を見て、
そんなに好きなんだったら、もうずっと通っていいわよ
と、学校にもきちんと行くことを条件に、応援してくれるようになったのだそうです。
麻倉未稀は中学3年生の時にアイドル歌手としてスカウトされるも変声期を迎えデビューが見送られていた
そんな中、麻倉未稀さんが中学3年生で受験期を迎えていたある日、歌謡学院でレッスン受けていたところ、視察に訪れていたレコード会社関係者の目に留まり、アイドル歌手としてスカウトされたそうで、
麻倉未稀さんは、一瞬は戸惑ったものの、「やってみたい」との思いからスカウトを受けると、さっそく、レコーディングに臨むことになったそうですが・・・
レコーディングの途中で変声期を迎え、声質が変わってしまったそうで、残念ながらデビューは見送られてしまったのだそうです。
麻倉未稀は中学卒業後はデビューの機会を待つため上京することを決意していた
ただ、レコード会社からは、歌の才能を認められ、
東京でレッスンを受けながらデビューの機会を待ってはどうか?
と、提案されたことから、
麻倉未稀さんは、目の前に用意されたチャンスの道を進もうと、上京を決意し、東京の高校へ進学することにしたそうで、
麻倉未稀さんは、その経緯について、
先生との面談で、「私東京行きます!」みたいなそんなノリで言っていて。先生がびっくりして母に電話したら、母も「えっ?」って思ったらしいのですが、
「まあ、本人がそういう風に言うんであれば」ということで、先生も東京の学校を調べてくださって。今考えるとすごくわがままだったなと思いますね(笑)。
ただ、住む場所が家の事情で決まっていて、そこに近い学校を探しなさいって言われたので、あまり選択肢がなかったんです。でも、そこに受かっちゃったんで、母も「仕方がないわね」って言って。
父は父で諦めてっていう。だからといってデビューが決まったわけでもなく、ただ東京に行ってちゃんと勉強したいからっていう理由で。
と、語っています。
麻倉未稀は高校生活が楽しすぎて歌のレッスンを忘れるほどだった
こうして、上京した麻倉未稀さんは、芸能プロダクションの練習生として念願の歌のレッスンをスタートさせたそうですが、
新しく始まった東京での高校生活が想像以上に楽しいものだったそうで、あまりの楽しさに、一時はあれほど情熱を注いでいた歌のレッスンをサボってしまうほど、高校生活を満喫したそうです。
(とはいえ、歌を忘れたわけではなく、高校生活の間にも、レコード会社のオーディションを受けたり、コマーシャルソングを勉強のために歌ったりと、歌手への糸口を模索し続けていたそうですが、オーディションは軒並み不合格だったそうです)
麻倉未稀は高校卒業後、雑誌「装苑」のモデルを始めていた
そんな中、麻倉未稀さんは、なかなかデビューの機会に恵まれないまま高校を卒業したそうで、アルバイトをしようと考えていると、
東京でファッション雑誌「ミセス」の専属モデルとして活動していた姉・高橋美和子さんに、
モデルをやってみる?
と、誘われたそうで、
勧められるがまま、雑誌「装苑」のオーディションに応募すると、見事、合格したそうで、「装苑」のモデルとして活動を始めたのだそうです。

モデル時代の麻倉未稀さん。
「【画像】麻倉未稀の若い頃は洋楽カバーの女王!デビュー曲は?ヒット曲は?」に続く
![]()




