テレビドラマ「ふぞろいの林檎たち」や「ありふれた奇跡」の脚本を執筆された、脚本家の山田太一(やまだ たいち)さん。1970年代、平凡な家庭を舞台に、家族の問題や苦悩を描かれ、それまでハッピーエンドが定番だった日本のホームドラマを覆し、テレビ界に革命を起こされました。
プロフィール
山田さんは、1934年6月6日生まれ、
東京都台東区浅草のご出身です。
出身大学は、
早稲田大学教育学部国文学科、
だそうです♪
読書の楽しさに目覚める
山田さんは、中学1年生の時、国語の授業で、
松尾芭蕉や島崎藤村の作品を書き写したことから、
本を読む楽しさに目覚められ、
中学2年生の時、別の先生が、私物である、
「レ・ミゼラブル」「椿姫」「罪と罰」などの、
本を貸してくれたことで、
小説を読むことに夢中になったのでした。
(山田さんの中学校は、疎開先だったため、
図書室などはなく、本を読むということが、
とても貴重なことだったようです。)
松竹に入社
その後、山田さんは、高校を卒業すると、
本好きが高じて、大学の国語国文学科へ進学。
大学卒業後は、教師になって、
休みの間に小説を書きたいと思っていたところ、
大学の就職課に、とりあえず「松竹」も受けておけば、
と勧められ、「松竹」を受験すると、合格。
課題で出た短編が面白かったことが、
合格の決め手になったそうで、
「松竹」入社後は、監督の木下惠介さんに師事し、
助監督として活動されたのでした。
木下惠介監督
また、1960年代になると、木下さんが、
映画からテレビの世界へと移行していったことから、
山田さんもそれについていき、
木下さんが企画したドラマの脚本を書くことに。
そして、1965年には、
松竹を退社し、フリーになられると、
1968年、木下さんに、
連続ドラマの脚本を書いてみるように勧められて書いた、
「3人家族」が高視聴率をマーク。
後に、山田さんは、
「プロになろう。絶対当ててやろう」
という意気込みで書かれたことを、
明かされていました。
人気脚本家に
その後も、山田さんは、1973年に、
平凡な中年サラリーマン家庭を舞台に、
家族の問題や脆(もろ)さを描いた、
「それぞれの秋」を発表し、
「芸術選奨新人賞」を受賞。
また、4年後の1977年には、
水害を背景に、平凡な中流家庭が、
崩壊していく様子を描いた、
新聞連載小説「岸辺のアルバム」が、
テレビドラマ化されているのですが、
「岸辺のアルバム」より。(左から)中田喜子さん、
杉浦直樹さん、八千草薫さん、国広富之さん。
テレビ史に残る名作として、
現在でも高く評価されています。
こうして、山田さんは、
当時、ホームドラマといえば、
「大家族のドタバタ劇」という常識を根底から覆し、
日本のドラマ界に、
大きな衝撃を与えられたのでした。
以降も、山田さんは、
1976年~1982年「男たちの旅路」
1979年「沿線地図」
1981年「想い出づくり」
1983年「早春スケッチブック」
1983年~1997年「ふぞろいの林檎たち」
「ふぞろいの林檎たち」より。(左から)石原真理子さん、
柳沢慎吾さん、中井貴一さん、手塚理美さん、時任三郎さん、中島唱子さん。
など、数々の名ドラマを世に送り続け、
1990年代になると、連続ドラマをやめ、
単発ドラマ、舞台脚本、戯曲、小説を発表。
2009年には、12年ぶりに、
「ありふれた奇跡」で、
民放の連続ドラマに復帰されています。
親友、寺山修司との出会い
ところで、山田さんは、1954年、
早稲田大学に入学されると、
後に劇作家となる寺山修司さんと、
同級生として知り合われます。
山田さんは、寺山さんとの出会いを、
何人かで雑談しているとき、自分に光を当てようと、
ぼくが小野十三郎の詩を引用したんです。誰も知らないだろうと思ったら、
寺山さんが次の行をすっと口にして。
東京は油断がならないな、と思いました。
と振り返っておられ、
これがきっかけに、二人は意気投合し、
親しい付き合いが始まるのですが、
寺山さんは、ほどなく、
ネフローゼで入院してしまうのでした。
寺山修司の入院
山田さんは、寺山さんに毎日会って、
語り合えないことがショックだったそうですが、
病室に通うことを思いつき、
毎日、お見舞いに行くことに。
しかし、ついには、
寺山さんのお母さんから叱られてしまい、
会いに行けなくなった山田さんは、
手紙を書いて、病室に置いていく、
という生活を毎日繰り返されたのだそうです。
また、一方で、寺山さんも、
山田さんの訪問を心待ちにしていたようで、
後に発表された、当時の寺山さんの日記の中には、
「山田」の文字が頻繁に出ています。
別れ、再会、そして永遠の別れ
そんな固い友情で結ばれたお二人でしたが、
山田さんは、大学卒業後は松竹へ入社。
寺山さんは、入院生活の末、中退されたことで、
二人は疎遠になってしまいます。
そして、20年ほど経ったある時、
寺山さんの方から、コンタクトがあったようです。
当時、寺山さんは、
すでに体調を崩されていたのですが、
山田さんのお祝いの席に出席されたり、
ひとりで電車に乗って、
山田さんの家に訪ねてきたりされたそうで、
山田さんは、そのことについて、
駅まで迎えに行くと、もう誰もいなくなった階段を、
彼が一歩一歩降りてくる。その場面をはっきり覚えています。家に来ると、すぐ「本棚を見せろ」
地下の書庫で本を手に取り、「懐かしいね」と言っていた。
中年の男2人、学生みたいな会話です。あのとき、別れの儀式みたいなものを持てたのが不思議で、
何かの力が働いていたように思えるんです。
と、振り返っておられます。
そして、間もなく、寺山さんは、
47歳という若さで亡くなってしまったのでした。
さて、いかがでしたでしょうか?
男同士で「相思相愛」
という言葉は不適切かもしれませんが、
まさに、お互い、強く惹かれ合い、
求めあったお二人。
2015年には、山田さんが編者を務めた、
お二人の若き日の書簡集「寺山修司からの手紙」
が出版され、新たに、山田さんのエッセイも、
寄せられているとか。
80歳を回ってもなお、お元気な山田さんですが、
お体には十分に気をつけつつ、寺山さんの分まで、
まだまだ作品を世に送りだしてほしいですね。
応援しています!!