「OK牧場」のギャグなどで、タレントとしてお馴染みの、ガッツ石松(ガッツ いしまつ)さんですが、実は、ボクシングの元WBC世界ライト級チャンピオン。今回は、そんなガッツさんの生い立ちから世界チャンピオンになるまでの経緯をご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?本名は?
ガッツさんは、1949年6月5日生まれ、
栃木県上都賀郡清洲村⇒粟野町(現・鹿沼市)のご出身、
身長172センチ、
本名は、「鈴木 有二(すずき ゆうじ)」、
学歴は、
栗野町立清洲第二小学校
⇒栗野町立清洲中学校
(中学時代は、不良仲間を集めて創部された陸上部の初代キャプテンを務めたそうです)
趣味は、
読書、映画観賞、パソコン、散歩、ゴルフ、
だそうです。
リングネーム(芸名)の由来は?
ガッツさんのリングネームは、もともと、「清水次郎長」の子分として幕末期に活躍したとされる、侠客「森の石松」から取って、「鈴木石松」だったそうです。
(「森の石松」は、「死んでも直らないほどのおっちょこちょい」だったとされています)
しかし、ガッツさんが、スタミナ切れから自らダウンする“嫌倒(いやだお)れ”で負ける場面が目立ち、1948年、WBA世界ライト級王座戦でロベルト・デュランに敗れると、2度目の挑戦も破れてしまったことから、
所属していた「ヨネクラボクシングジム」の後援者だったある会社の社長により、
ガッツ(根性)がないからガッツを持つように
と、改名されたというのです。(ガッツさん本人は、カタカナの名前に違和感を感じていたそうですが)
ちなみに、ついに世界チャンピオンになった瞬間、「やったぞ、ばかやろう」という気持ちで両手を突き上げたところ、それを「ガッツポーズ」と名付けられたそうで、現在、この言葉は広辞苑にも載っているのだそうです♪
5歳でガキ大将~中学時代は番長
さて、ガッツさんは、姉、兄、弟の4人兄弟の次男として生まれると、貧しい農家の家庭だったことから、小学3年生で新聞配達をし、放課後は農業の手伝いをして、家計を支えられたそうです。
また、ガッツさんは、小さい頃から、小柄ながら負けず嫌いでケンカが強く、5歳にして近所のガキ大将になったそうで、
中学生になると、暇さえあればケンカし、近所の中学校に遠征してはケンカし、ついには、地域の中学生を束ねる番長にまでなったそうです。(泣き出してからが強かったとか)
15歳で上京
また、警察や裁判所のお世話(保護観察処分)になったこともあったそうですが、実は、貧乏がゆえに卑屈になって悪さをしていたそうで、中2の時に家庭裁判所で父親が若い裁判官に泣きながら何度も頭を下げる姿を見て、悪さも辞めたそうです。
そんなガッツさんは、学校の体育教師になることを夢見ていたそうですが、貧乏な家庭事情から進学を断念せざるを得ず、中学卒業と同時に15歳で上京されたのでした。
極貧だった少年時代
ちなみに、ガッツさんの家がどれだけ貧しかったというと、
- 家は物置小屋同然で、冬は風が吹き込んで寒いのを通り越して痛かった。
- 食べるものがなかったことから、イナゴやヘビなど何でも食べた。
- 梅干しがあれば豪華な食事だった。
- 学校の遠足にはバス代がないため行けなかった。
という、凄まじさだったそうです。
WBC世界ライト級チャンピオン
そんなガッツさんは、その後、ボクシングに出会うと、
学歴もなく、転職ができるわけでもなく、自分を出せる場はボクシングしかない
と、1966年3月、「ヨネクラジム」に入門し、ボクシングの練習にのめり込んでいったそうで、
同年10月には、早くもプロテストに合格。
同年12月には、1回KO勝ちでプロデビュー。
1969年には、「全日本ライト級」で新人王。
1972年には、「東洋ライト級」チャンピオン。
と勢いに乗り、
1974年4月には、ついに、「WBC世界ライト級」で、メキシコのロドルフォ・ゴンザレスに8回KO勝ちし、見事、世界チャンピオンになられたのでした。
ガッツ石松さんが世界チャンピオンになった瞬間。
防衛5回
そして、その後も、ガッツさんは、
1974年9月には、チュリー・ピネダ(メキシコ)を相手に引き分けで初防衛すると、
1974年11月には、ロドルフォ・ゴンザレスとの再戦でも12回KO勝ちで、2度目の防衛に成功。
さらに、1975年2月には、元WBA・WBC王者で最強と言われた、ケン・ブキャナン(イギリス)との防衛戦で3対0と判定勝ちをして、4度目の防衛に成功。(ガッツさんは、この月、WBC月間MVPを獲得し、評価を揺るぎないものとされています)
1975年6月には、チュリー・ピネダとの再戦に、3対0と判定勝ちをして、4度目の防衛に成功。
1975年12月には、アルバロ・ロハス(コスタリカ)を14回KO勝ちで退け、5度目の防衛に成功されています。
王座陥落~引退
しかし、1976年5月、6度目の防衛戦では、プエルトリコのエステバン・デ・ヘススに15回判定で敗れ、王座から陥落すると、
翌年の1977年4月には、「WBC世界ジュニアウェルター級王座」に挑戦するも、タイのセンサク・ムアンスリンに6回KO負けし、2階級制覇も失敗。
センサク・ムアンスリン戦。
そして、1978年には、日本スーパーウェルター級王者の新井容日に判定負けし、ついに、ガッツさんは引退されたのでした。
「ガッツ石松の若い頃は橋田壽賀子に大抜擢されていた!」に続く