1954年には「青年俳優クラブ(後に劇団青俳に改名)」の設立に参加し、1966年には「新演劇人クラブ・マールイ」を妻・丹阿弥谷津子さんと設立した、金子信雄(かねこ のぶお)さん。
今回は、そんな金子信雄さんが「文学座」を退座して、「青年俳優クラブ」の結成に参加した経緯や「新演劇人クラブ・マールイ」についてご紹介します。
金子信雄は「文学座」に入座し当初は舞台中心に活動も「浦島太郎の後裔」で映画デビューもしていた
金子信雄さんは、1943年、20歳の時、劇団「文学座」入座し、舞台を中心に活動していたのですが、当時、舞台俳優も、映画に出演する風潮になっていたため、金子さんも、映画界に引っ張られ、1946年には、「浦島太郎の後裔」で映画デビューすると、
その後、
- 1950年「七色の花」
- 1952年「生きる」
- 1952年「山びこ学校」
- 1952年「真空地帯」
と、映画に出演しています。
金子信雄は「文学座」を退団して「青年俳優クラブ」結成に参加していた
ただ、舞台と映画では、お芝居の仕方が違うため、金子さんをはじめ、当時の劇団員の間では、どのように演じることが良いのか、しばしば、議論の対象となっていったそうで、
映画では、シェイクスピアやギリシア劇の方法論を演技に持ち込む舞台と違い、
演技は写実的にやるもんなんだ
と、よりリアルなお芝居を求めるべきだと、劇団員の間で意識が変わってきたのだそうです。
そんな中、金子信雄さんの演劇仲間である、織本順吉さんが所属していた「新協劇団」の主宰者・村山知義さんらは、依然として、この考え方を認められなかったそうで、
ついに、金子信雄さんは、1952年に「文学座」を退団し、織本順吉さんの他、飲み仲間であった、「俳優座」の木村功さん、「新協劇団」の岡田英次さん、西村晃さん、「文学座」の高原駿雄さんらと共に、「青年俳優クラブ」を結成に参加すると、翌年の1953年には、「俳優座劇場」で第1回公演「フォスター大佐告白する」を開催し、
1954年には、「青年俳優クラブ」名義で、独立プロの山本薩夫監督の「日の果て」、新東宝の市川崑監督の「億万長者」など、映画制作にも関わるようになったのでした。
金子信雄は「劇団青俳」を1年で退団していた
そして、1954年10月、「青年俳優クラブ」は、「劇団青俳」に改名し、主に、翻訳劇、創作劇を精力的に上演していったのですが・・・
金子信雄さんは、後に、
私なんかダシになったんだけど
と、語っており、「劇団青俳」となってから、わずか1年で退団しています。
「劇団青俳」は1979年に次期劇団社長の乱脈経営で多額の負債を抱え倒産
ちなみに、その後、「劇団青俳」は、1966年には、「オッペンハイマー事件」「あの日たち」「地の群れ」の公演で、「第1回紀伊國屋演劇賞」を団体として受賞しているのですが、
次第に、「劇団青俳」の2本柱だった木村功さんと岡田英次さんの考え方にズレが生じはじめ、ついに、1968年には、劇団内部の戯曲選出について、二人の意見が対立したことから、劇団内で分裂が生じ、岡田英次さんをはじめ、多くの個性派劇団員が脱退しています。
そして、1970年には、「青年俳優クラブ」結成当初から経営に携わっていた本田延三郎さんも退社するほか、劇団員も次々に退団して、大きくメンバーの顔ぶれが変わると、
1979年には、次期劇団社長の劇団以外の乱脈経営で、多額の負債を抱え、倒産しています。
金子信雄は妻の丹阿彌谷津子と共に「新演劇人クラブ・マールイ」を設立していた
さておき、金子信雄さんは、1966年には、妻の丹阿彌谷津子さんとともに、「新演劇人クラブ・マールイ」を結成(共同経営)し、演出家としても活動しています。
(松田優作さんも、「文学座」に入座する前、一時期、「新演劇人クラブ・マールイ」に所属していたことがあったそうです)
1950年代は、主人公のいけ好かない恋敵や軽薄な男の役、1960年代は、日活映画で石原裕次郎さんや小林旭さんら銀幕のスターの敵役、1973年には、映画「仁義なき戦い」で、小狡(ずる)くセコい山守親分役を演じて映画ファンを …