1954年、21歳で美空ひばりさんの相手役として映画「ひよどり草紙」に出演して以来、順風満帆だった、萬屋錦之介(よろずや きんのすけ)さんでしたが、1982年(50歳)に、個人事務所「中村プロダクション」が13億円の負債を抱えて倒産すると、その後は、次々と不幸に見舞われます。

「萬屋錦之介の再婚した妻・淡路恵子は歌舞伎座のチケットを1万枚さばいていた!」からの続き

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事務所倒産~重症筋無力症~胸腺腫摘出手術

1954年、21歳で映画俳優に転向して以来、長年トップスターとして走り続けてきた萬屋さんですが、1982年(50歳)に個人事務所「中村プロダクション」が13億円の負債を抱えて倒産すると、

追い打ちをかけるように、同年、歌舞伎公演の最中に倒れ、「重症筋無力症」で入院。さらには、「胸腺腫摘出手術」を受けられます。

(萬屋さんは倒産後、闘病で仕事ができなくなり、豪邸を売却、やがては貯金も尽きしてしまったそうですが、奥さんの淡路恵子さんが、寝ずの看病をしながら、生活を支えられたそうです。)

甲にしき(小川甲子)と不倫で淡路恵子と離婚

ただ、翌年の1983年には、妻・淡路恵子さんの看病の甲斐もあり、「重症筋無力症」から回復されたのですが・・・

1986年には、共演が多かった甲にしき(現・小川甲子)さんと不倫関係になり、1987年、淡路さんと離婚。

実は、淡路さんと甲さんは友人同士だったそうですが、

淡路さんは、

私は本人から聞いたことしか信じない、お友達ですもの、彼女は。

と、泣き言一つこぼさなかったと言われています。

甲にしき(小川甲子)と再々婚するも難病に

その後、萬屋さんは、1990年、甲さんと再々婚するのですが、


錦之介さんと小川甲子さん。

結婚直後、「右目角膜剥離」という難病を発病してしまいます。

三男(実子)が事故死

さらに、同年7月には、三男(実子)の晃廣さんが、バイクでの帰宅途中、タクシーと正面衝突し、22歳の若さで帰らぬ人に。

この時、すでに、萬屋さんは、淡路さんと離婚していた為、晃廣さんとは長らく会っておらず(晃廣さんは淡路さんに引き取られました)、約3年半ぶりの再会が遺体となってしまい、

淡路さんによると、萬屋さんは、

ぼくが死にたい・・・

と、愛息の死に打ちひしがれていたといいます。

(萬屋さんには4人の息子がおり、長男は淡路さんの連れ子の島英津夫さん(俳優)、次男は一般人、三男と四男は淡路さんとの間に誕生した実子で、それぞれ、俳優としても活動していた晃廣さんと哲史さん。)

死因は?

そして、それから6年後の1996年には、萬屋さんの「咽頭ガン」が発覚。萬屋さんは、甲さんの献身的な看病も虚しく、翌1997年3月10日、入院先の千葉県柏市の国立がんセンター東病院で、「肺炎」のため、64歳で他界されたのでした。

ちなみに、最初の妻だった有馬稲子さんは、

錦ちゃんは本当に良い人でした。台本を三つぐらい常に持って走り回っていました。働き過ぎたんですよね。だから病気になっちゃったんですよ。かわいそうに。

と、明かされていました。

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四男(実子)は自殺

ところで、萬屋さんの死後ではありますが、2010年には、四男(もう一人の実子)の哲史さんが自殺されています。

哲史さんは、一時は、「萬屋希之照」「萬屋吉之亮」の芸名で活動していたものの、両親(萬屋さんと淡路恵子さん)の離婚後、精神的に不安定になって、10代の頃からアルコールに溺れるようになっていたそうで、

2004年には、更生のため、住み込みで働いていた京都のお寺から、酒代欲しさに仏具を盗み、窃盗罪で懲役1年6月(執行猶予3年)の判決を受けると、

されに、同年、かつて母・淡路さんと住んでいた淡路さんの自宅で金品を物色しているところを、帰宅した淡路さんに見つかって通報され、1年の刑に服されました。

そして、出所後、自立の道を歩き始めていた矢先、自殺されたのでした。

「萬屋錦之介のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

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