埋もれていた古狂言を復活させると、伝統的な歌舞伎に「宙乗り」「早替り」などを取り入れ、エンターテイメント性に富んだ舞台で観客を魅了するほか、スーパー歌舞伎では、歌舞伎の演技法を活かしながら、最新の舞台機構、美術、照明を駆使した演出で、歌舞伎の観客の裾野を広げた、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さん。今回は、そんな猿翁さんの家系図と幼少期についてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?
猿翁さんは、1939年12月9日生まれ、
東京都の出身、
身長165センチ、
体重68キロ、
血液型はA型、
学歴は、
明石小学校(疎開先の湘南・茅ヶ崎市)
⇒千代田区立番町小学校
⇒慶應義塾中等部・慶應義塾高等学校
⇒慶應義塾大学文学部国文学科卒業
だそうです。
本名は?屋号は?
猿翁さんの本名は、喜熨斗政彦(きのし まさひこ)なのですが、父の三代目段四郎さんと母の高杉早苗さんの仲人だった劇作家・長谷川伸さんによって名付けられたそうで、
長谷川さんが、名付けの「三考資料」として、政典、政彦、政之と書いた上質な和紙の中に、「政ハ人ヲ鞭撻(べんたつ)シテ正道ニ導ク 彦(ひこ)ハ男子ノ美称、大丈夫」とあったそうで、祖父の二代目市川猿之助さんがお七夜(赤ちゃんが無事に生まれたことを祝う行事のことで、生まれてから7日目の夜に祝う)に当たる1939年12月15日に政彦を選んだのだそうです。
また、屋号は「澤瀉屋(おもだかや)」で、襲名は以下のように変遷しています。
- 三代目市川團子(1947年1月、東京劇場「二人三番叟」)
- 三代目市川猿之助(1963年5月、歌舞伎座「義経千本桜」「黒塚」ほか)
- 二代目市川猿翁(2012年6月、新橋演舞場「六月大歌舞伎」)
親族は?
猿翁さんの親族ですが、
祖父は、初代市川猿翁(二代目市川猿之助)さん、
父親は、三代目市川段四郎さん、
母親は、高杉早苗さん、
弟は、四代目市川段四郎さん、
妹は、市川靖子さん、
最初の妻は、浜木綿子さん(1965~1968年)
二番目の妻は、藤間紫さん(2000~2009年死別)
長男は、香川照之(九代目市川中車)さん
と、芸能一家です。
ちなみに、四代目市川猿之助さんは甥(弟の長男)です。
家系図
家系図は以下の通りです。
4歳の時に湘南の茅ヶ崎に疎開していた
猿翁さんは、お父さんの三代目市川段四郎とお母さんの高杉早苗さんのもと、3人兄弟姉妹(弟1人と妹1人)の長男として、東京で誕生するのですが、
1943年、4歳の時には、太平洋戦争のさなか、乳母兼看護師の小田さんと妹・靖子さんの3人で、湘南の茅ヶ崎に疎開すると、畑の中にぽつんと建つ、8畳くらいの部屋と3畳ほどの次の間、台所、トイレ、半屋外の風呂があるだけの一軒家で暮らしたそうです。
(父の三代目段四郎さんと母の高杉早苗さんの2人は、築地の明石町にあった本宅を守っていたそうです。また、この疎開先の一軒家は、茅ヶ崎に住んでいた俳優・上原謙さんの紹介で、お母さんが見つけたものだったそうです)
ちなみに、疎開先では、9月、台風一過で畑の溝が小川となったことから、そこで、妹の靖子さんとザリガニを獲ったこと、飛行機の音がしてサイレンが鳴り、庭から家へ駆け上がろうと踏み石に足をかけようとした途端、踏みはずして右まぶたの横を切ってしまったこと(この時にできた傷は今も残っているそうです)、家に蚊帳(かや)を吊る懐かしい風景などが、今でも忘れられないそうです。
作曲家の山田耕筰が建てた大きな別荘に引っ越していた
そんな猿翁さんは、翌年の1944年には、同じ茅ヶ崎の中海岸にあった、作曲家の山田耕筰さんが建てたという、大きな別荘に引っ越したそうで、
(おじいさんが安く買ったそうですが、後で見ると、爆撃で屋根の一部に穴があいていたそうです)
前に住んでいた一軒家よりもずっと広く、また、庭の草木の花は、白梅、桜、木蓮、桃、桐など、一年中、何かが咲いており、次々と花開く様子はそれはそれは見事だったそうです。
「市川猿翁(2代目)は7歳の時に三代目市川團子を襲名していた!」に続く