現在では、石原軍団の古株であるほか、神田沙也加さんの父親、そして、松田聖子さんの元夫として有名な、神田正輝(かんだ まさき)さんですが、今回は、そんな神田さんの知られざる生い立ちと、石原軍団に加入したいきさつなどをご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

神田さんは、1950年12月21日生まれ、
東京都港区赤坂のご出身、

身長178センチ、
体重70キロ、

血液型はA型、

学歴は、
港区立赤坂小学校
⇒?中学校
⇒日本大学高校
⇒日本大学芸術学部映画学科卒業
(中学時代は、陸上部・水泳部・バスケットボール部を掛け持ちするほか、スキーやダイビングもされる、スポーツマンだったそうです。(天体観測部にも所属))

趣味・特技は、
スキー、スキューバーダイビング、テニス、ゴルフ、乗馬、カメラ、

ちなみに、「神田正輝」は本名です。

母親は女優の旭輝子

神田さんのお母さんは、女優の旭輝子(あさひ てるこ)さんです。

旭さんは、4歳のとき、お父さんの三国象之助さんが病気のため他界しており、その後は、お母さんの貞子さんとその再婚相手である、「西式健康矯正術」診療所を経営する医師・杉彰純さんのもとで育ちます。

そして、1937年、12歳の時、「宝塚歌劇団」を受験して合格されるのですが、「宝塚歌劇団」は兵庫県宝塚市にあり、東京の自宅から通うことができず、断念。

しかし、翌年の1938年には、「松竹少女歌劇団」(SSK)を受験されると、見事、合格。

翌年の1939年には、実践女学校(現・実践女子学園中学校)を中退し、「松竹少女歌劇団」に6回生として入団されます。

そして、1947年、「松竹歌劇団」(「松竹少女歌劇団」から改称)を退団されると、1948年には、映画「唄まつり百万両」で女優デビュー。

その後は、「歌ふエノケン捕物帖」などエノケン映画に数多く出演されるほか、映画、テレビドラマ、舞台にと、幅広く活動されました。(2001年12月31日77歳で死去)

父・神田正次の婚外子

そんな旭さんは、すでに妻子持ちの、10歳年上の石油販売会社二代目社長・神田正次さんの妾となり、男の子を出産されるのですが・・・

その男の子というのが、神田さんです。

(※妾(めかけ)とは、婚姻した男性が、妻以外に囲う女性のことで、経済的援助を伴う愛人のこと。当時、地位のある男性が妻とは別に妾を持つことはさほど珍しいことではなかったそうです。)

そのため、神田さんは、婚外子として育てられたのでした。

石原裕次郎にスカウトされる

そんな神田さんは、成長し、大学時代には、プロ級のスキーの腕前があったことから、テスター(スキー板の開発)のアルバイトをされ、将来は山小屋の経営を夢見ておられたそうですが、

そんな中、1973年、23歳の時、レストランで、知人を通して、石原裕次郎さんから声をかけられると、意気投合したそうで、

その後、石原さんから、

役者をやる気はないのか

と、誘われます。

ただ、幼い頃から、女優であるお母さんのもとに多くの役者仲間が訪ねて来るのを見ていた神田さんは、化粧をしている男性が大嫌いだったことから、

ありません

と、即座に謝絶。

それでも、スキー仲間に背中を押されたこともあり、一週間後に石原さんから誘われ、「日活」に見学。

そして、その一週間後、石原さんから、

ひやかしでドラマ1本にでてみないか?

と、誘われると、

冷やかしでいいなら1本やりますよ

と、とりあえず現場に行くことにされたのでした。

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「冷やかし1本」で芸能界入り

こうして、神田さんは、軽い気持ちで撮影に参加されたそうですが、現場では、スタッフから台本をもらったものの、その台本をどうしたらいいのか分からず、石原さんに聞いたところ、

そんなもん捨てちまえ

と、言われたそうで、神田さんは、その言葉を真に受けて捨ててしまいます。

すると、4、5日後に、宍戸錠さんとの撮影があったのですが、神田さんが全く何も分かっておらず、一言も発することがなかったため、

なんで台本読まないんだ

と、あきれられたそうで、

その時はじめて、石原さんが言った、「そんなもん捨てちまえ」は、

暗記してこい

という意味だと気付いたのだそうです。

また、スキーに行きたかった神田さんは、撮影期間中にもかかわらず、石原さんに言って、スキーに行かれたことがあったそうですが、

まもなく、石原さんから、

頼むから帰ってきてくれ

と電話がかかってきたそうで、

その後、撮影に戻ると、そのまま「石原プロモーション」に入社されたのでした。

「神田正輝の若い頃は太陽にほえろでブレイク!」に続く

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