「ザ・タイガース」が大人気となり、沢田研二さんと人気を二分した、加橋かつみ(かはし かつみ)さん。しかし、そんな絶頂期の1969年5月、突然失踪してしまいます。
「加橋かつみの若い頃は?沢田研二とタイガース?年齢は?本名は?」からの続き
人気絶頂期に失踪~「ザ・タイガース」を脱退
「ザ・タイガース」が大人気となり、
沢田研二さんと人気を二分した加橋さんですが、
音楽性など自分たちの意見をまったく聞いてもらえず、
個人の権利も尊重されないまま、
ろくに寝る時間も取れない過密なスケジュールで、
事務所の利益のためにのみ働かされていることに、
次第に、アイドルとしての自分自身、ひいては、
「ザ・タイガース」の存在にも疑問を感じ始めるようになると、
加橋さんと沢田研二さん。
事務所の意向に忠実で、ひたすら仕事をこなす、
沢田研二さんに対しても反発心を抱くようになっていき、
「ザ・タイガース」人気絶頂の1968年4月頃には、
脱退したい意向を関係者に明かします。
すると、事務所は、沢田研二さんと人気を二分する、
加橋さんが脱退されてはたまらないと、
加橋さんの意向を反映した、「誕生、平和、友情、恋、祭、
運命、兵士、母、死、英雄、人類の滅亡、再出発」をテーマとした、
コンセプトアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」を制作するのですが、
「ヒューマン・ルネッサンス」
その後も加橋さんの不満は払拭されることはなかったそうで、
何度となく脱退したい旨を事務所に伝えるも、なかなか了承されず、
ついに、1969年3月5日、渋谷・斉藤楽器でのレッスン中に、
スタジオを離れたきり戻られなかったのでした。
失踪の真相
しかし、ほどなくして、この失踪は、脱退したい加橋さんの意向を受けた
「渡辺プロダクション」が仕組んだ脱退劇だったことが発覚し、
「渡辺プロダクション」は謝罪会見。
つまり、「渡辺プロダクション」は、加橋さん本人の意向とはいえ、
特に大きな理由もなく加橋さんを事実上解雇することは、
「ザ・タイガース」の人気に悪影響を及ぼすのではないかと恐れて、
加橋さんが自発的に失踪したことにし、
加橋さんと加橋さんのお母さんをホテルに拘束。
外部と連絡を取れないようにしていたのでした。
ただ、この計画は、加橋さん以外のメンバーやスタッフには、
まったく知らされぬ間に実行されていたそうで、他のメンバーは困惑。
特に、京都時代から友人で、苦楽をともにし、
同じような思想を持っていた瞳みのるさんには大きな打撃を与え、
後に、「ザ・タイガース」解散へとつながっていったのでした。
パリへ~帰国後ミュージカル「Hair」が大ヒット
こうして、計画的に脱退した加橋さんは、
脱退の数日後にはフランス・パリへと飛ぶと、
あらかじめ、裏で渡辺プロが、加橋さんの次の受け入れ先として、
お膳立てしていた「フィリップス・レコード」と契約し、
翌月の4月には、ソロアルバム「パリ1969」を制作。
「パリ1969」
そして、このアルバム制作時に、当時、
世界でセンセーションを巻き起こしていた、
反戦ロック・ミュージカル「Hair」と出会い、
アルバムのプロデューサーである川添象郎さんと
意気投合して、「Hair」を日本に持ち帰ると、
1969年12月、東京・東横劇場で上演された、
日本オリジナル・キャストによる(加橋さんも主演格で出演)
ミュージカル「ヘアー」は11万人を動員する、
大ヒットを記録するのですが・・・
「ヘアー」日本公演より。(東京・東横劇場)
大麻不法所持で逮捕~懲役刑
なんと、加橋さんは、そんな大盛況の東京公演中、川添さん、
寺田稔さん(「ヘアー」で加橋さんとともに主演格)とともに、
大麻パーティを開いていたそうで、
翌年の1970年2月、東京公演が終わり、
大阪公演が始まる直前には「大麻不法所持容疑」で逮捕され、
懲役2年執行猶予3年の有罪判決に処されたのでした。
(そのため、大阪公演は中止。以降、
「Hair」は完全に封印されてしまいます)
「加橋かつみの現在は?結婚は?ゴダイゴと?ポンキッキ?」に続く