一時は、テレビドラマ「夜明けの刑事」で主演を張ったり、歌手としても「学校の先生」がヒットした、坂上二郎(さかがみ じろう)さんですが、「コント55号」の活動が中断した後は、主に俳優として地道な活動をされました。

「坂上二郎の飛びますギャグって?学校の先生で歌も!出演ドラマ映画は?」からの続き

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脳梗塞で倒れる

そんな坂上さんですが、2003年、ゴルフのプレイ中に、
突然「脳梗塞」で倒れられ、病院に搬送されます。

ただ、この時は、同伴競技者に医師がおり、
その場ですぐに適切な処置が施されたことから、

約2ヶ月の入院と必死のリハビリで、
左半身に麻痺を残しながらも、2004年6月には復帰。

その後は、この闘病生活を綴った著書、
脳梗塞をぶっ飛ばせ。」を出版されるほか、


脳梗塞をぶっ飛ばせ。

2005年4月には、歌手として5年ぶりの新曲となる、
必殺!人生送りバント/飛びます音頭」をリリース。


必殺!人生送りバント/飛びます音頭

また、同年6月には、栃木県那須塩原市に転居され、
笑いと介護を合体させた異色のお笑いタレント養成所「那須お笑い学校」
の名誉校長に就任するほか、


「那須お笑い学校」の名誉校長に就任し、挨拶される坂上さん。
(左はルー大柴さん)

それまで居住していた東京都練馬区(平和台駅前)にも、
自らが学院長を務める「総合芸能学院キャメルアカデミー」を開校。

さらに、2006年5月には、地元で結成された社会人野球チームの、
「鹿児島ホワイトウェーブ」の総監督に就任されるなど、
(背番号は萩本さんと同じ「55」)精力的に活動されたのですが・・


試合前に握手する萩本さんと坂上さん。

死因は脳梗塞

2010年8月13日、自宅のキッチンで再び倒れ、
その際、頭を強打されると、首から下が麻痺し、
ほぼ全身の自由が効かなくなってしまいます。

そして、その後は、入院先の病院で介護を受け、
2011年3月10日午前6時頃、看護師が見回りに来た際には、
普段と変わらないご様子だったのが、同日午前9時頃には体調が急変。
そのまま午前9時40分に他界されたのでした。(享年76歳)

欽ちゃんのコメントは?

ちなみに、相方の萩本さんは、仕事先の富山県で車で移動中、
知人から「二郎さんが・・・」と電話がかかってきて、その直後、
ラジオのニュースで訃報が流れ、この悲報を知ったそうで、

富山空港でのインタビューでは、まず、第一声、

二郎さん、病気してたからね。
だから、「え?」とか、そういうことじゃなくて、
乗ってる車のラジオで、ニュースで二郎さんって出たとき、
一番、最初、「駄目だよ」「勝手に、駄目だよ…」

ずいぶん、いろんな約束したっていうの。
あと、だいぶ、二郎さんにありがとうが多いからね。

だから、やだな…
送る時にね、告別式でとか、そういうところで、
「二郎さん、ありがとう」とか…
まず、さようならをね、言いたくない人だよ。

あとは、さようならを言いたくないなっていうのと、
だから、ここで悲しむと、さようならになっちゃう。
さようならは、心の中かな。
僕の心の中には、ずっといるし、さようならしたくない人ですから。

と言われ、「どんな約束だったのか」との質問には、

まず、55号の、動けなくても、
それでも動く坂上二郎の笑いというので、やるぞと。
お笑いだもんね。それで、「やるぞ」って。

できないからって、「早く治せ、次やるよ」って言ってたのに。
「大丈夫?」って聞いたら、「大丈夫」って。
「じゃあ待ってるからな」っていうのに、ちょっと来られなかったし。

「また、やろうね」って言って、
もう、「飛びます、飛びます」できないだろうって言ったら、
起き上がってきて、「飛べません、飛べません」って、
まだ、ギャグやってるぐらいだから。

それ見てね、「元気」、
「見舞いに来たけど、ばかばかしいから帰る」
って、それで帰ってきたんだ。

そのぐらい、ギャグにね、まだ貪欲(どんよく)に立ち上がってたから。
二郎ちゃんとまたできるっていうね、そういう気分でしたけど。

「またできると信じてた中で、訃報を聞いたことに対しては?」の質問には、

なんで、おれ1人にするんだよと。おれ1人で、できないって。
ツッコミって、ろくなお笑いできないからね。

アドリブできる、目を見てコントができる、
たった1人の、とんでもない大きなコメディアンでしたからね。

そういう点では、そのコントもできない。

そして、最後に、
「今、声をかけるとしたら、なんと声をかけてあげたいか?」の質問には、

二郎さん、ありがとうしかないよ。
あと、55号、最高だったね。

と語られたのでした。

欽ちゃんが最も一緒にやりたくない相手だった

また、後に萩本さんは、

あのコメディアン(坂上さん)だけは一緒にやりたくなかったの。

理由は今だから言えるけど(坂上さんが)”優れもの”だったのよ。
その”優れもの”とやると自分が悲しくなるから嫌だなって。

と、語っておられるのですが、

実際に坂上さんとコンビを組むと、

(坂上さんは)まるで文句を言わない人。
こんなに僕が年下なのに「好きなように欽ちゃんやれ」って。

テレビ局の打ち合わせでも、「僕は邪魔だから帰る」って。
全部僕にやらせてくれたの。

だから、どれだけ僕を信用してくれてたか。
二郎さんは「欽ちゃんが考えればいい」って。

と、全く逆で、坂上さんは、萩本さんのほうが自分よりも、
「テレビ」をよく理解していると、「コント55号」の舵取りを、
すべて萩本さんに任せてくれたそうで、

萩本さんは、あれほど嫌だと思っていた、
坂上さんとコンビを組んだことで、売れたことを、

運って前からこない。真裏からくるね。

と、感謝されていました。

「飛びます、飛びます」って?

ところで、坂上さんのギャグといえば、
「飛びます、飛びます」 ですが、

このギャグは、「コント55号」のコント「結婚コンサルタント」の中で、
両手で2機(A飛行機、B飛行機)の飛行機を作り、
甲高い声で、「飛びます 飛びます」と言って舞台を駆け巡ったことが始まりで、

当初は、数あるコントの一つに過ぎず、長い間、埋もれていたのですが、
1980年代に入り、坂上さんのモノマネを得意とした片岡鶴太郎さんが、
好んで多用したことで、広く、人気ギャグとして定着したのだそうです。

飛ぶ直前なので、飛行機が上に行ってはならず、
手を口に近づけるのではなく、顔が手に近づくようにするのだそうです♪

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嫁は?子どもは?

最後に、坂上さんのプライベートですが、

坂上さんは、1958年に、一般女性の瑤子さんと結婚されると、
息子さん1人と娘さん2人の3人のお子さんに恵まれています。
(タレントの坂上忍さんとは血縁関係はなく、赤の他人)

まず、長男の大樹さんは、
タレントとして活動されていたことがあったそうで、

1975年には、父子で「二郎さんのOH!マイおやじ」
という番組の司会を担当、

長女は、「有沙美希」の名前で、
「松竹歌劇団(SKD)」で活動、

次女の亜樹さん(1968年に誕生)は、
10代の頃、女優として活動されていたことがあったそうですが、


「スクールウォーズ」より。右が亜樹さん(左は山本理沙さん)

それ以上の情報はなく、3人とも、
現在はどうされているのか分かりませんでした。

ちなみに、坂上さんがプライベートをあまり見せなかったのは、
長男の大樹さんと共演した番組の評判が良くなく、
マスコミに批判されたことがトラウマになっていたのでは、と言われています。
(この番組が「二郎さんのOH!マイおやじ」かどうかは不明)

さて、いかがでしたでしょうか。

出会った当初、お互い最悪の印象で、
その後も嫌い合っていた二人が、実は運命の人だったなんて、
ほんと、運はとんでもないところに潜んでいるのかもしれませんね。

そんなおふたりのコント、
是非、この機会にご覧ください!!

「坂上二郎の若い頃はコント55号で野球拳?萩本欽一との馴れ初めは?」

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