「誇り高き挑戦」「狼と豚と人間」で評論家からは高い評価を得るも、興行的には大失敗となり、お荷物監督とまで揶揄されていた、深作欣二(ふかさく きんじ)さん。そして、この後もしばらく芽が出ない日々が続くのですが・・・
「深作欣二の生い立ちは?若い頃はお荷物監督と言われていた!」からの続き
富司純子の口利きで「顔役」の監督に
「誇り高き挑戦」や「狼と豚と人間」では、興行的には大失敗となった深作さんですが、「狼と豚と人間」を観た、女優の藤純子(現・富司純子)さんが高く評価し、東映の任侠映画プロデューサーだった父親の俊藤浩滋さんに深作さんを推薦。
すると、1964年には、俊藤さんプロデュースの「顔役」(1965年公開)で、深作さんが監督、深作さんの親友だった笠原和夫さんが脚本を担当することとなり、深作&笠原コンビでの企画が進められたのでした。
中原早苗とのデートで脚本進まず?
そして、早速、第一原稿を書いた笠原さんは、俊藤さんにもOKをもらい、深作さんに渡されるのですが、深作さんは、内容に疑問を感じ、少し直すことを提案。
そこで、深作さんと笠原さんは、東京の旅館「和可菜」で、脚本の直しの作業に取り掛かるのですが・・・
笠原さんによると、
(時代は東京オリンピックだったこともあり)それで同じ部屋に机を置いて、二人でヨーイ・ドンと始めたわけです。それで僕は五日間で書きあげちゃったわけですよ。
で、「お前、どうなってる」と見たらまだ二〇枚しかできていないと。それで夜になると、なぜかノコノコ出ていく。何をしているかというと、ちょうど深作は(女優の)中原早苗と結婚間近でね。
と、笠原さんが前半部分を5日で書き上げたのに対し、深作さんは、中原さんとのデートで、後半部分を20枚しか書いていなかったのでした。
胃潰瘍で入院
実は、深作さんの言い分としては、
当時、古臭いもの、つまり、スターシステム(人気の高い俳優を起用して製作を進めているシステムのこと)を、時代遅れとして捨て去っていく気運が出てたんです。
黒澤明はもうその十年も前に、三船敏郎の荒々しい魅力を前面に出して『酔いどれ天使』(昭和二三年)を撮ってましたからね。
僕も『狼と豚と人間』で反抗の映画を撮ってしまった後ですから、この時代に何故スターシステムをやらねばならないのか、とどうしても納得がいかなかったんです。
と、「スターシステム」に納得がいかないことから、なかなか脚本作りに取り組めなかったそうですが、
笠原さんこそ、この状況に納得いかず、ついに激怒。
深作さんが夜中に帰って来たところをつかまえ、
こっちは会社がOKしたホン投げうって、お前のために書いてやってるんじゃないか。それなのにお前は女と遊んで二〇枚しか書いてない。ふざけるんじゃない!
と、怒鳴ると、
申しわけない。明日の朝までにはなんとかするから
と、深作さんが言ったため、すでに脚本を書き上げていた笠原さんは、家に帰られたのですが・・・
なんと、翌日、宿屋から
深作さんが血を吐いて倒れてます
と、電話が。
笠原さんは、慌てて宿屋に飛んでいき、深作さんを病院につれていくと、深作さんは、ストレス性の胃潰瘍で入院することとなったのでした。
笠原和夫と決裂
そこで、東映は、代打の監督として、急遽、石井輝男さんを起用。
石井さんが脚本の直しを引受け、監督を務めることになり、深作さんと笠原さんのコラボは、最終的には、二人の「共同脚本」という形で、「顔役」が製作されたのですが、
この騒動で、笠原さんは、
「絶対、二度と深作とは組まない」
と、思われたといいます。
実録風映画「日本暴力団 組長」が初ヒット
その後も深作さんは、相変わらずヒットとは無縁で、フリーとなり、1968年には、松竹映画「恐喝こそわが人生」、「黒蜥蜴」「黒薔薇の館」(丸山明宏さん(現・美輪明宏さん)主演)を発表するのですが、
その後、俊藤さんに、
そろそろ東映に戻ってこい 俺がヤクザ映画の作り方を教えてやる
と、東映に呼び戻され、
1969年、鶴田浩二さんを主演に「日本暴力団 組長」の監督を務められると、これまでのギャング映画とは異なり、カメラマンの仲沢半次郎さんの手持ちカメラが縦や横に揺れる、ドキュメンタリー風なカメラワークが、深作さんに大きな影響を与え、映画もついに初めてのヒットを記録。
「日本暴力団 組長」より。
鶴田さんからも、
気分が良い これから一緒に飲もう
と、電話で誘われるなど、ようやく良い感じになってきたのでした。
「深作欣二の仁義なき戦いとの出会いは?浅間山荘事件がきっかけ?」に続く