ハンブルク(西ドイツ)では、拷問と言ってもいいくらいの劣悪な環境にもかかわらず、徐々に力をつけ、ようやく頭角を現し始めた「The Beatles」ですが・・・

「ビートルズのハンブルク時代はジョンレノンがパンツ一丁でステージに!」からの続き

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ジョージハリスンが国外退去処分

「インドラ・クラブ」「カイザーケラー」で力をつけた「The Beatles」は、ハンブルクに来て2ヶ月程経った1960年10月末、「カイザーケラー」の競合となる「ザ・トップテン・クラブ」がオープンすると、そのオーナーである、ペーター・エクホルンから出演依頼を受け、承諾します。

というのも、メンバーはみな、コシュミダーのもと(「カイザーケラー」)で働くことに疲れ切っていたうえ、「ザ・トップテン・クラブ」の方が設備が良いことを聞いたからです。

ただ、「カイザーケラー」には、12月末まで出演する契約だったため、オーナーのコシュミダーは激怒。

11月1日には、「The Beatles」との契約を破棄し、

下記の署名者はこれによって、ジョージ・ハリスン氏とビートルズのバンドに対し、1960年11月30日に退去するよう告知する。上の告知は、ジョージ・ハリスン氏がまだ17歳であることを発見した公官庁の命令によるものである。

と、告知書をつきつけてきたのでした。

実は、「カイザーケラー」では、午後10時になると、18歳未満の若者はクラブを退場しなければならず、警察官がステージに上がり、

午後10時になりました。18歳未満の若者はこのクラブを退場しなければなりません。身分証明のチェックを行います。

と、アナウンスしていたのですが、この時、ジョージ・ハリスンさんはまだ17歳、しかも、「The Beatles」のメンバーは誰も労働許可証を持っていないにもかかわらず、警察のチェックをうまくかわしていたのですが、この告知により、ジョージは11月21日にドイツ警察当局に国外追放されてしまったのでした。

「トップ・テン・クラブ」に移れるはずが・・・

それでも、ジョージさんによると、

僕は故郷に帰らなければならなくなったが、それは絶妙なタイミングだった。というのは僕らはトップ・テンというずっとクールな別のクラブからオファーを受けていたんだ。

僕らはカイザーケラーの出演の合間にそこへ行っては、トニー・シェリダン (Tonny Sheridan) とかの演奏を見てたものさ。そこの経営者はブルーノ・コシュミダー (Bruno Koschmider) から僕らを密猟して、僕らはすでに2回くらいそこで演奏してたんだ。

そのクラブは本当にいい雰囲気で、すごい音響システムもあった。素晴らしく見えたし、ギャラも少し多かった。だからこの時点で、僕らはカイザーケラーを辞めてトップ・テンに行こうとしてた。また実際行きたかった。

そしてちょうどその時に警察が来て、僕を街から追い出したというわけなんだ。それで僕はそこを出て故郷に帰るけども、他のみんなはそこを出てこの素晴らしいクラブに行こうとしてた。

と、ジョージ以外の「The Beatles」の他のメンバーは、環境のいい「トップ・テン・クラブ」に移る準備に取り掛かっていたのですが・・・

ポールマッカートニーとピートベストも国外退去処分

ジョン・レノンさんとスチュアート・サトクリフさんは、すでに引っ越しを済ませており、続いて、ポール・マッカートニーさんとピート・ベストさんが自分の荷物をまとめていたのですが、寝泊まりしていた映画館の屋根裏部屋で明かりとして使った火が原因で、ボヤ騒ぎを起こしてしまいます。

すると、コシュミダーさんが、この時を待ってたとばかりに、「The Beatles」は映画館に放火しようとしたと警察に通報し、ポールさんとピートさんは逮捕。

拘置所に入れられた2人は、翌朝釈放され、国外退去処分となったのでした。

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残されたジョンレノンとスチュアートサトクリフは・・・

そして、その後、残されたジョンさんは、自力でリヴァプールに戻り、スチュアートさんは、「カイザーケラー」で恋仲になった女性カメラマンのアストリッド・キルヒャーさんの所に身を隠し、ハンブルクに残ったのでした。

(ちなみに、キルヒャーさんが数多く撮影したハンブルク時代のビートルズの写真は、後に傑作として高く評価されています。)

「ビートルズはブレイク前に解散危機を迎えていた!」に続く

ハンブルク時代、ピートさんを除く4人は過酷な毎日を乗り切るためプレルディン(Preludin)というを精力剤を常用していたそうです。

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