スチュアート・サトクリフさんとピート・ベストさんという、バンド創立初期からのメンバーが抜けた「The Beatles」ですが、この後、「The Beatles」の快進撃が始まります。
「ビートルズがピートベストを追放!ジョージが先導しジョンとポールも賛同?」からの続き
シングル「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」が大ヒット
1962年8月16日にピート・ベストさんを追放した「The Beatles」ですが、たった2日後の8月18日には、新しいドラムスとしてリンゴ・スターさんを加入させると、
同年10月5日には、本国イギリスにて、ファーストシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でレコードデビューを果たし、ミュージック・ウィーク誌(英語版)の「トップ50」で最高17位(1962年12月27日付)を記録。
「LOVE ME DO」
そして、翌年の1963年1月11日にリリースした2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」は、メロディー・メーカー誌の「シングル・トップ50」で1位(1963年3月2日付)を記録。(ミュージック・ウィーク誌では最高2位)
「PLEASE,PLEASE ME」
同年4月11日にリリースした3枚目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」は、ミュージック・ウィーク誌で7週連続1位(1963年5月2日付~6月19日付)を記録。
「FROM ME TO YOU」
同年8月23日にリリースした4枚目のシングル「シー・ラヴズ・ユー」は、6週連続1位を記録。
「SHE LOVES YOU」
同年11月29日にリリースした5枚目のシングル「抱きしめたい」は、5週連続1位を記録するなど、
「I WANT TO HOLD YOUR HAND」
立て続けに大ヒットを連発し、瞬く間に、本国イギリスにおいて、トップミュージシャンとなります。
アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」「ウィズ・ザ・ビートルズ」がメガヒット
また、同年4月26日には、デビュー・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」がリリースされているのですが、5月11日付でチャート1位を記録すると、なんと、その後、連続30週間もの間、1位を記録し、
その「プリーズ・プリーズ・ミー」の連続1位が続く中、1963年11月22日に2枚目のアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」をリリースすると、12月7日付で「プリーズ・プリーズ・ミー」を押しのけて1位となり、その後、1964年5月まで21週間連続1位を記録。
つまり、「The Beatles」は、「プリーズ・プリーズ・ミー」と「ウィズ・ザ・ビートルズ」の2枚のアルバムで、ほぼ一年に渡り、イギリスのアルバムチャートの第1位を独占するという、メガヒットを記録したのでした。
そして、同年10月13日、「The Beatles」は、当時の人気番組「サンデイ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム」に出演されているのですが、その際、およそ1500万人もの人が「The Beatles」の演奏を視聴したと言われており、このことがきっかけで、「The Beatles」は、イギリスでの人気を決定づけたのでした。
アメリカ進出には苦労していた?
ただ、そんな「The Beatles」も、アメリカ進出には苦労したようで、新曲が出るたびに、プロデューサーのジョージ・マーティンさんが、アメリカ合衆国で「EMIレコード」を販売している「キャピトル・レコード」にアメリカでの販売を要請するのですが、毎回拒否されており、
やむなく、「EMIレコード」がイギリスでの配給権を取得している小さなレーベルと契約してレコードを販売するも、レコード会社が小さいことから大規模な販売ができず、ヒットにはつながりませんでした。
ただ、その後、「ライフ誌」や「ニューズウィーク誌」が、「The Beatles」を記事にしたことから、ラジオのディスクジョッキーが「The Beatles」のレコードをかけはじめると、次第にアメリカでも知名度が上がり、ついに、「キャピトル・レコード」の方からレコード販売させて欲しいと要請してきたそうで、
1964年1月には、「キャピトル・レコード」から発売した初のシングル「抱きしめたい」が、シングルチャートで1位を記録し、
同年2月9日、アメリカのTV番組「エド・サリヴァン・ショー」に初出演すると、7300万人もの視聴者を集め、当時のアメリカテレビ史上の最高視聴率を記録したのでした。
「ビートルズ唯一の来日は厳重警備で静か過ぎる公演だった!」に続く