たびたび、作家の三島由紀夫さんとの関係が取り沙汰されてきた、美輪明宏(みわ あきひろ)さんですが、今回は、そんなお二人の出会いについてご紹介します。
「美輪明宏のヨイトマケの唄は昔放送禁止だった?寺山修司作品で俳優デビューも!」からの続き
三島由紀夫との出会い
1951年、当時、美輪さんは、音楽学校に通いながら、銀座4丁目のお店でウェイターとしてアルバイトをしていたのですが、
そのお店は、1階が喫茶店、2階がきれいな女性がたくさんいるクラブで、2階のクラブには、ゲイであることを隠した官公庁や各界の偉い人たちが集まり、その噂を聞きつけたゲイでない実業家や文化人なども、物見遊山でたくさん来ていたそうで、
ウェイターである美輪さんも、時々、2階から呼び出されることがあったそうです。
それでも、いつもは、
芸者じゃないから行きません!
と、断っていたそうですが、
ある時、三島由紀夫さんが出版社の人たちとお店に来て、2階に上がると、
チップを3倍あげるから、あの子を呼んでこい
と、三島さんが言っていると、お店のマスターから聞き、
じゃあ、行きます
と、美輪さんは二つ返事で2階に上がられます。
三島由紀夫さん
当初は牽制し合っていた?
こうして、美輪さんは、三島さんと初対面したのですが、
三島さんに、
何か飲むか?
と、聞かれるも、
美輪さんは、
芸者じゃないから結構です
と、断り、
三島さんに、
生意気でかわいくない子だな
と、言われると、
美輪さんは、
奇麗だからかわいくなくてもいいんです!
と、切り返す、
といった感じで、会話をされたそうで、
三島さんは、そんな美輪さんのことを、
こんなナルシストは見たことがないね。たまげたもんだ。世の中の人間の目をすべて鏡だと思っている。これはほんもののナルシストだよ。
と、周囲に話し、
美輪さんも、後に、その時のことを、
私はといえば、世界一の美少年だと自負していたころだし、少年ならで誰でももつ不遜さのかたまりで、劣等感など爪の垢ほどもなかったから、随分と無礼な態度をとったんでしょうね。
それに偉い人への反発もあったし、先生がまるで珍しいものでも観察するような眼をされたことに、ひどく反抗したことを記憶しているわ。
と、「週刊ポスト」の取材で話すなど、
出会った当初の二人は、お互い牽制しあい、少し突き放したような感じだったそうです。
三島由紀夫が美輪の姿にカルチャーショック?
また、美輪さんによると、初めて出会った日、美輪さんは、ルパシカというロシアの民族衣装を着ていたことから、三島さんに、
なんだその格好は?
と、言われたそうで、三島さんには、その姿がとんでもないファッションに見えたようだったとのこと。
というのも、三島さんは、もともと真面目な人で、買い物は「三越」、1ヶ月に1回は「歌舞伎座」と「帝劇」を鑑賞し、スーツは「英國屋」で仕立て、羊羹(ようかん)は「とらや」と、ブランド志向の人だったことから、美輪さんを見て、カルチャーショックを受けられたようですが、
(ただ、三島さんに限らず、これは、当時の上流階級の人の生活パターンであり、東京人はこうあるべき、というマニュアルでもあったそうです)
その一方で、
こういう生き方をしている人間もいるんだ…
と、驚かれていたそうで、
(とはいえ、衣裳に関しては、会うたびに「趣味が悪い」「もっとまともな格好をしろ」とけなされたそうです(笑))
その後、美輪さんが、三島さんに、
あなただって、本当はなさりたい服装がおありになるのでは?おっしゃいましよ!
と、尋ねたところ、
三島さんは、ぼそっと、
ジーンズをはいて、革ジャンが着たい……
と、おっしゃったそうで、
そこで、美輪さんは、御徒町にあるお店を案内してあげたところ、三島さんは、喜んで、革ジャンとジーンズを購入されたのだそうです。
(後日、三島さんのお母さんから、公威(きみたけ・三島さんの本名)さんにあんな格好させたのはあなたでしょ!」と、恨まれてしまったそうですが(笑))
三島由紀夫から歌の才能を認められる
そして、あるとき、三島さんから、
1曲歌え
と、言われ、美輪さんは、独学で勉強したシャンソンをフランス語で歌ったそうですが、
歌い終わった後、まだ自信がなく、戸惑いながら、
僕の歌、どうでしたか?
と、尋ねると、
三島さんは真剣な表情で、
君は大物になる
と、言ってくれたそうで、
それ以来、三島さんの美輪さんを見る目が変わり、その後、美輪さんが、シャンソン喫茶「銀巴里」に移った後も、店に来てくれ、お二人はとても良い友だちになられたのだそうです。
(美輪さんは、三島さんのこの言葉を胸に、その後の不遇な歌手人生を生き抜くことができたとおっしゃっています)
https://www.youtube.com/watch?v=SRsdjMWVU_c