「母に捧げるバラード」が大ヒットして「NHK紅白歌合戦」にも出場を果たし、一躍スターダムに駆け上った、武田鉄矢(たけだ てつや)さんでしたが、翌年には早くも低迷。しかし、その後、思いもよらない展開が待っていました。

「武田鉄矢の昔は泉谷しげるのスカウトで上京し母に捧げるバラードがヒット!」からの続き

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「母に捧げるバラード」のヒットで結婚するも・・・

「海援隊」として、「母に捧げるバラード」が大ヒットした武田さんは、1974年には、かねてより交際していた、21歳の銀行員、節子さんと結婚。

(節子さんは、もともと武田さんのファンだったそうです♪)

公私ともに順調な人生が始まったかと思われたのですが・・・

人気低迷で嫁と皿洗いの日々

飛ぶ鳥を落とす勢いだった「海援隊」も、翌年には、早くも人気が低迷。

コンサートはさっぱりお客が入らずガラガラで、仕方なく、キャバレーで酔っ払い相手に歌う日々を送るも、ついに、設立した事務所は社員に支払う給料さえ出せなくなって倒産。

やがて、「母に捧げるバラード」で得た印税による蓄えも底をつくと、1975年の大晦日には、テレビから流れる「NHK紅白歌合戦」を横目で見ながら、奥さんと居酒屋で皿洗いのバイトをされていたそうで、

武田さんは、後に、その時のことを、

紅白に出た次の年にまったく仕事が無くなってさぁ、給料4カ月間無いんだ。「いやぁ、こりゃダメだな」と思って。事務所を辞めようと決心して、次の事務所に行くまでの間、食いつなぐ為に女房と二人でスナックでバイトやったんだよ、皿洗いの。

うーん。原宿の鉄板焼き屋さんだったけど、4千円貰えるんで・・・で、夕方から深夜の1時2時まで皿を洗っているだけで。女房妊娠してんのよ。不安だったぁー。

4月に生まれるって言われた、うぅ、そのぉ、妊娠7か月6カ月の女房と仕事が1本もない俺なのよ。で、みそかの鐘(大晦日)を聞いて、4千円もらって、原宿のバイト先から恵比寿まで歩いて帰ったの。

で、女房のお腹を冷やさないように・・・もう貧乏だったから2人寄り添うしかないのよ。もうホントに忘れもしないけど今でも。青山学院を抜けてコカ・コーラボトラーズの本社がある坂道があるのよ。

そこに来た時に女房が突然、真っ暗いみそかの闇、まぁ正月になってたけど上りながら、「よぉーく見とこう」って言いだしたのよ。で、「何を?」つったら「今がどん底だから、もうこれから先は下はない。これから良いことがやってくるわよ」って。

と、語っておられます。


節子さんと武田さん。

母・イクと「厄払いの乾杯」

そして、その後も、なかなかヒット曲が出なかった武田さんは、上京から3年半後、ついに、今後の身の振り方を相談するため、実家に帰るのですが、

武田さんから話を聞いたお母さんのイクさんは、黙って武田さんの目の前にコップ酒を差し出し、

鉄矢の顔に貧乏神がついている。それをだますために乾杯をしよう。

人生は思い通りにはいかん、でもあきらめたらばそこでおしまいばい。

と、言われたそうで、

その言葉に背中を押された武田さんは、もう少し芸能界で頑張ってみようと決意。

後に武田さんは、この夜のことを

乾杯の厄払いのコップ酒の一夜は、本当に忘れがたい人生の曲がり角の一夜

と、語っておられます。

「幸福の黄色いハンカチ」で「日本アカデミー賞最優秀助演男優賞」を受賞

すると、その後、武田さんは、映画監督の山田洋次さんから、映画「幸福の黄色いハンカチ」)(1977年)で、まさかの、俳優として、冴えない青年役のオファーを受けると、


「幸福の黄色いハンカチ」より。武田さんと高倉健さん

演技経験がほとんどなかったため、プレッシャーなどからNGの連発だったそうですが、主演の高倉健さんに励まされながら、なんとか演じ切ると、その演技が高い評価を得て、なんと、いきなりこの年の「日本アカデミー賞最優秀助演男優賞」を受賞。(映画自体も数々の映画賞を独占)

武田さんは、この「幸福の黄色いハンカチ」で、俳優に活路を見いだしたのでした。

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山田監督からのオファーの理由とは

ところで、武田さんは、演技経験がほとんどないうえ歌手として低迷していた自分に、なぜ山田監督がオファーをくれたのか、いまだにはっきりと分からないそうで、オファーがあった時は、

売れてない歌手をからかいにでも来たのか

と、思われていたそうですが、

山田監督によると、もちろん、そうではなく、登場する男女のうち、都会出身の女性は桃井かおりさんにすぐに決まったそうですが、これと対置する地方出身の男性のキャスティングが難航していたそうで、そんな時、プロデューサーから武田さんを紹介され、武田さんを起用することになったのだそうです。

ちなみに、武田さんいわく、山田監督からは相当厳しく演技指導され、撮影前の食事はほとんど喉を通らなかったそうですが、撮影を終えるといろいろな話を聞かせてもらったそうで、その時の話を、後に、「海援隊」「幸福の黄色いハンカチ」(朗読詩)として披露されています。

(1983年にリリースした海援隊のライブアルバム「ラストライブ」に収録されています)


LAST LIVE (日本武道館(1982))

「武田鉄矢は金八3番手だった?水戸黄門ほか出演ドラマ映画は?」に続く

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