「フランス座」に主役待遇で出向するも、「フランス座」の芸人たちに意地悪をされ続け、中でも、特に坂上二郎さんからはひどいイジメにあい、舞台上でもケンカのようなコントを繰り広げていた、萩本欽一(はぎもと きんいち)さん。そんな萩本さんは、やがて、自ら劇団を旗揚げされるのですが・・・
坂上二郎と仲直りせぬまま「フランス座」を去る
萩本さんと坂上さんのアドリブでのやり取りは、お客さんには大ウケしたものの、お互い「この野郎!」と思い、楽屋では口を聞くこともないほど険悪なまま、2年の月日が流れます。
そして、萩本さんは、「浅草新喜劇」という劇団を作り、その劇団の座長をやるため、「フランス座」を去ることになるのですが、
萩本さんが挨拶もせずに出ていこうとすると、
坂上さんから、
座長だって?すげえな。
と、声をかけられ、さらには、
今度機会があったらコンビでも組まないか?俺漫才やっていたから、間とかもわかるしさ。
と、誘われたそうです。
ただ、萩本さんは、散々意地悪してきたのに何をいまさらと、即答で断ったそうで、それっきり、お二人は仲直りせぬまま別れてしまったのでした。
初TVCMで19回連続NGし自殺を図る
その後、萩本さんは、自身が旗揚げした「浅草新喜劇」で座長としてお芝居をされていたのですが、ある日、たまたまその舞台を見ていたTBSテレビのディレクターに声をかけられ、テレビCMの出演が決まります。
しかし、萩本さんは、この初のテレビCMというチャンスで、連続21回NGを出すという大失敗。
深く落ち込んだ萩本さんは、「餓死自殺」を図ろうと、自室にこもったそうですが、「浅草新喜劇」で一緒だった先輩の小田憲司さんが訪ねて来て、
バカなことを考えるな!オレは今、熱海の「つるやホテル」でフロアショーの司会をやってるんだけど、芸人を1人探してるんだ。熱海に来いよ。
と、誘ってくれたのでした。
熱海で成功するも・・・
こうして、萩本さんは、小田さんとともに、熱海の「つるやホテル」に営業に行き、日々ショーとコントをされていると、日に日に評判は上がり、さらに、次から次へとコントのネタが湧いてきたそうで、
やっぱり、僕には舞台が一番なんだ。テレビに出ようと思ったのは間違いだったんだ
と、思うようになり、
しばらくすると、いてもたってもいられなくなって、
浅草に戻ろう。浅草に帰って、このネタをやるんだ!
と、2ヶ月後には東京に戻り、事務所の浅井さん(後の「浅井企画」の社長)に熱海でウケたネタを、また舞台でやりたい、と連絡。
コンビの相方には、7歳年上の芸人・田畑俊二さんに声をかけるのですが・・・
田畑さんは、新たに組んだ「ギャグ・メッセンジャーズ」というコンビでテレビに出始めており、ぼちぼち人気が出始めたところだったため、遠回しに断られてしまったのでした。
坂上二郎から運命の電話
そんな萩本さんは、ガックリして、久々に浅草の下宿に戻られたのですが、それから1時間も経たないうちに電話が「リーン」と鳴ります。
すると、
欽ちゃん、電話だよ!
と下から呼ばれたそうで、
萩本さんは、すぐに階段を降りて、黒電話の受話器を取ると、
あ、欽ちゃんか。オレ、坂上……いや、安藤ロールだけどね。
と、意外な声が。
なんと、電話の主は、「フランス座」で散々意地悪をされ続け、ただただ毎日ステージの上でケンカのようなコントをして、楽屋では口も聞かなかった、坂上二郎(当時は安藤ロール)さんだったのでした。
実は、当時、坂上さんは、埼玉・西川口のキャバレーで司会の仕事をしていたのですが、やはり、お笑いがやりたかったにもかかわらず、相棒もチャンスもなく、おまけに、奥さんは妊娠中。
そんな悶々(もんもん)とした毎日を送る中、
浅草の「フランス座」でコントをやってた時が懐かしいなぁ
と思っていたら、萩本さんの顔が浮かんできたそうで、
萩本欽一かぁ。アイツとは舞台でいつもやり合ってた。お互い、口も利かなかったもんなぁ。でも、オレも頑張ってたけど、アイツの頑張りも凄かった。懐かしいなぁ‥‥。照れ臭いけど電話してみるか
と、知り合いから電話番号を聞き出し、萩本さんに電話をかけられたのが、ちょうど、萩本さんが熱海から帰ってきた、まさにその日だったのでした。
「萩本欽一と坂上二郎のコント55号結成は奇跡の電話がきっかけだった!」に続く