幼少期から高校生までは極度の人見知りで、たった一駅、電車に乗ることすら避け、4キロもの道のりを歩いて通っていたという、草笛光子(くさぶえ みつこ)さんですが、高校3年生の時に運命が動き出します。

「草笛光子は幼少期から高校時代まで極度の人見知りだった!」からの続き

Sponsored Link

松竹歌劇団(SKD)に入団

そんな草笛さんは、高校3年生の時、「松竹歌劇団(SKD)」に憧れていた友達から、自分では無理だから、代わりに入団テストを受けてほしいと頼まれたそうで、

「SKD」について何も知らなかった草笛さんが、その友達にどんなところか聞くと、

女が男の役をする

と言われ、

恐ろしいなあ

と、思われるも、友達のたっての願いだったことから受験されると、なんと、60倍の競争率を突破し、見事合格。

これには面食らい、当初は困惑した草笛さんでしたが、

両親が、

水商売ぎりぎりの世界に娘をやるのか

と、猛反対したことから、逆に反発心が芽生え、「SKD」に入団することを決意。

その後、草笛さんは、高校の先生のはからいで、一ヶ月間高校を休学することを許され、「松竹音楽舞踊学校」(SKDの劇団員養成機関)に通うことになったのですが、

高校卒業まであと3ヶ月という時期に、「SKD」から、卒業まで待てないと言われたそうで、草笛さんは、1950年、高校を中退して、「SKD」に5期生として入団されたのでした。

「純潔革命」で映画デビュー

こうして、「SKD」に入団された草笛さんは、

入ったからには番付を上げる。卒業までに一番になってやる。

と、決意されたそうで、

1952年には、舞台「リオ・グランデ」で歌姫ビアトリス役に抜擢され、翌年1953年には、舞台「春のおどり」でプリマドンナとして出演されると、舞台映えする容姿と抜群の歌唱力で注目を集め、


SKD時代の草笛さん

同年3月には、草笛さんの高まる人気に目をつけた親会社の「松竹」に引き抜かれ、「純潔革命」の主演でスクリーンデビュー。


「純潔革命」より。草笛さんと金剛麗子さん

また、同年8月には、「秋のおどり」に出演され、主題歌の「赤い恋の花」で、歌手としてもデビューを果されたのでした。

そして、同年秋には、松竹オールスター映画「花の生涯」にも出演され、翌年の1954年には、「春の若草」でメインキャストを務められるなど、早くも映画でひときわ輝く存在感を放たれたのでした。

10年に1人の逸材

そんな活躍から、草笛さんは、10年に一人の逸材と言われるのですが、記録映画でアップになるシーンに草笛さんが抜擢されると、周囲からは、生意気だと陰口を叩かれたそうです。

それでも、草笛さんは、

だって私が頼んだわけじゃないから、そんなこと気にも留めませんでした。SKD辞める時もケロッとしてましたねえ。

と、意に介さなかったそうで、

むしろ、そんなことよりも、

SKDに入って、大勢の観客の前に立つようになった時に、本当は私、ここに出たかったんだと気づいたんです。

自分を認められたい願望が、心の奥にあったんでしょう。子どもの頃は、その気持ちに素直になれなくて、殻に閉じこもっていたのかもしれません。

と、自分がやりたいことを見つけた喜びの方が大きかったと、語っておられました。

Sponsored Link

「社長」シリーズや「光子の窓」で活躍

さて、その後、草笛さんは、1954年に「松竹歌劇団(SKD)」を首席で卒業され、
いろいろな映画会社から誘いを受けるのですが、ここまで芸を身に着けさせたくれた恩から、筋を通す形で「松竹」に所属されます。

ただ、当時の「松竹」の路線であった、メロドラマやホームドラマで演じられた健気なヒロイン役は、華やかな草笛さんのキャラクターとは合わず、さほど大きな話題とはならなかったようで、

1956年には、個性を活かすことのできない「松竹」を退社し、東宝と専属契約を結ぶと、

翌年1957年の映画「雨情」で、森繁久彌さん演じる童謡詩人が恋する芸者役を皮切りに、以降、森繁さん主演の「社長」シリーズで社長の浮気相手役を華やかに演じられ、草笛さんのハマり役となったのでした。


「社長紳士録」(1964年)より。森繁久彌さんと草笛さん。

また、草笛さんは、女優としての活動以外にも、1958年、ご自身の冠番組「光子の窓」で司会進行役を務められると、毎回ゲストを迎えてトークをしながら、歌や踊りで楽しませる、日本初のバラエティー番組の原型を確立されたのでした。


「光子の窓」より。

「草笛光子の源は母親との絆とコンチクショー精神だった!」に続く

Sponsored Link