歌手を目指して上京すると、心身を鍛えるため、あえて、無給・無休でカレー店で働くという苦労を自ら買ってでた、杉良太郎(すぎ りょうたろう)さん。そんな苦労が実り、1965年には、ようやくデビューが決まるのですが・・・
「杉良太郎の生い立ちは?カレー店で無給で働いていた!」からの続き
「野郎笠」で歌手デビューするも・・・
杉さんは、1965年9月、ちょうど20歳になった時、歌手デビューが決まり、カレー店から原宿の家賃2万円の1DKのアパートに移り住まれます。
そして、ファーストシングル「野郎笠」で念願の歌手デビューを果たされるのですが・・・残念ながら、ヒットとはなりませんでした。
「野郎笠」より。
そして、この年の大晦日は、「NHK紅白歌合戦」をパチンコ店で聴いていたそうで、
同じ歌手でも、向こうは紅白歌合戦に出ていて、こっちはパチンコ。情けないなぁ。
と、夜道をパチンコの景品のたばこ「ハイライト」を吸いながら歩いて帰り、
立ち寄った定食屋で、
オレは日本一歌がうまいのに売れない。何でだ!
オレは必ず日本一になるぞ!
と、一人息巻いたのだそうです。
ちなみに、杉さんは、
個人的には、ジーンズやスーツ姿でステージに登場して、ブルースとか、かっこいい曲を歌いたかった。なのに「野郎笠」、B面曲「東海道は西へトントン」は、ともに演歌。
プロデューサーから「絶対ヒットするから、着物で歌ってくれ」と言われてね。その通りにしたけど案の定、売れなかった…。
と、この「野郎笠」ではヒットしないだろうと、予想していたそうです♪
反骨精神が強く周囲と軋轢
ところで、この頃の杉さんのお給料は2万円で、家賃が2万円だったため、実家から仕送りされる3万円だけで生活されていたそうですが、そのほとんどが食費や舞台衣装などに消えるほか、当時は、楽曲のメロディーを譜面にする譜面代というものもかかったそうで、本当にギリギリの生活だったそうです。
さらに、その後も、ヒットの兆しが全くなかったことから、当時、所属していた「日本コロムビア」へ行くと、知らないディレクターから、いきなり、
お前がいるから会社が赤字になるんだよ
と、ボロクソに言われたこともあったとか。
それでも、杉さんは、大衆演劇や浪曲の興行師だったお父さんの影響で、
国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を斬る
のセリフが好きだったため、
いつも、何を言われてもヘラヘラ笑いつつ、心の中では、
今に見返してやるぞ
と、思い続けていたそうで、
そのせいで、周囲からは、
新人のくせに態度がデカイ
と、言われ、軋轢を生んだのだそうです。
ちなみに、杉さんは、後に、
今思えば、ひどい態度だったね。
と、認めておられます♪
「燃えよ剣」で俳優デビュー
売れない杉さんは、「コロムビア」主催の公演で全国を地道に営業周りされると、北海道では、馬小屋で裸電球が光る中、りんご箱の上に立って、農家の人たち60人と馬に歌を聴いてもらったこともあったそうで、
歌がヒットするには、テレビに出演することが一番の近道だということは知りつつも、知名度のない歌手は袖の下(賄賂)がいるケースが多く、例えば、ツーコーラス(2番)まで歌いたかったら、(当時の相場で)約30万円も必要だったそうで、お給料2万円の杉さんには、到底支払うことができずにいたそうです。
また、100万円近く取るプロデューサーもおり、それで破産する歌手がいる、との噂も耳にしたそうで、杉さんは、そんな現実を目の当たりにするうちに、歌の世界がだんだんと嫌になっていったそうです。
そんな中、俳優として、時代劇「燃えよ剣」への出演オファーが杉さんに舞い込みます。
というのも、制作担当だった(後のフリーアナウンサー)芥川隆行さんが、杉さんが着物姿で歌っているところを、どこかで観て、
杉は時代劇に合う
と、オファーをしたというのです。
それでも、なんと、杉さんは、時代劇は古臭くて嫌いだったため、断られたそうですが、主題歌もオファーされ、「コロムビア」からもぜひ出演しろと言われたことから、1966年、「燃えよ剣」の沖田総司役で俳優デビューされたのでした。
「燃えよ剣」
「杉良太郎の若い頃は文五捕物絵図でブレイクも人間不信になっていた!」に続く
https://www.youtube.com/watch?v=LORNuLttdMk