1970年代に「キャロル」のメンバーとして人気を博して以来、半世紀に渡り、音楽活動を続けられている、矢沢永吉(やざわ えいきち)さん。今回は、そんな矢沢さんの、生い立ち、幼少期についてご紹介します。
年齢は?出身は?身長は?
矢沢さんは、1949年9月14日生まれ、
広島県広島市南区仁保のご出身、
身長180センチ、
血液型はB型、
愛称は「永ちゃん」「ボス」、
学歴は、
広島市立大芝小学校
⇒広島市立中広中学校
⇒広島電機大学附属高校(現・広島国際学院高校)
⇒市立広島工業高校の定時制に転校後卒業
趣味は、
パソコン、バイク、クルマ 釣りだそうです。
小学校時代の矢沢さん。
高校時代の矢沢さん。
本名は?韓国人?
矢沢さんは在日韓国人で、本名は「趙永吉(チョ ヨンギル)」、通り名は「巴山永吉」だったようです。
昭和53年6月8日に帰化して日本国籍を取得されたと言われています。
昭和53年6月8日の官報?
母親は蒸発、父親は他界
矢沢さんのお父さんは、7、8人も丁稚(でっち)を雇うほどの大きな自転車店を営み、大きな家に住んでいたのですが、1945年の原爆投下で、店も家族(妻と息子と娘の3人)も失ってしまいます。
その後、お父さんは再婚され、矢沢さんが誕生するのですが、矢沢さんが3歳の時にお母さんは蒸発。
さらに、矢沢さんが小学2年生の時には、今度は、お父さんが原爆の後遺症で体を壊し他界してしまいます。
(矢沢さんによると、お父さんは、いつもお酒を飲んで荒れていたそうですが、一方で、矢沢さんに自転車を与えてくれ、それが近所中で話題となって、皆んなが自転車に乗せてくれとせがみに来た、いい思い出もあるそうです)
幼少期は極貧生活
その後、矢沢さんは、親戚の家をたらい回しにされ、父方のおばあちゃんに引き取られたのですが、おばあちゃんは生活保護を受けていて生活は貧しく、小学校時代はいつも空腹で、遠足の時もリュックサックが買えず、新聞紙で作ったリュックサックを持って行ったそうです。
また、道具が買えなかったためスポーツにも参加できず、野球のルールさえ知らなかったほか、海水パンツも買うことができなかったため海にも行くことができず、川で泳ぐのが唯一の遊びだったそうです。
そのため、この頃の矢沢さんは、
つまらない、つまらない
というのが口癖だったそうで、
それを聞いたおばあちゃんは、
面白いところに行け
と言ったそうですが、おばあちゃんは、時々、涙ぐんでいたこともあったそうです。
生活保護を受けていた
そんな矢沢さんは、小学4、5年生の時、初めて、遠足の時の持ち物も、月謝を支払う時も、ほかの子供といつも何か違っていたのは、貧乏だからだと気づいたそうで、
給食ただで食べさせてもらって、教科書ただでもらったあの時のこと忘れない。こんな屈辱は無いと思ったからね。生活保護を受けている子は、給食の、食事を作っているとこ、あれの裏口まわってから、牛乳とパンもらうんだよ。
これ、乞食じゃん。ふざけんなよ、と思ったよ。ああ、絶対これ上に行かなきゃダメなんだ、と思った。これ、小学校6年ぐらいで、それ思わせてくれたんだよ。
と、貧乏のせいで、給食代も教科書代もすべて免除されていることが、恥ずかしくて悔しくて仕方がなく、
自分が親になったら、息子の給食費や教科書代は絶対払ってやると誓っていましたよ。
と、心に誓ったそうです。
「誰よりも金持ちになってやる」と思ったエピソード
こうして、矢沢さんは、極貧生活の中、恥ずかしさや悔しさを感じながら育ち、
絶対に金持ちになってやろうと思ったよ。金さえあればなんでも手に入ると思った。
と、思うようになるのですが、それを決定づける出来事が起こります。
それは、ある年のクリスマスイブの日、矢沢さんが近所の土手で遊んでいると、お金持ちの鉄工所の息子が、デコレーションケーキを持って、なめながらやってきて、
(この鉄工所の息子は、意地が悪く、甘えん坊だったそうですが、矢沢さんにとっては、うらやましい存在だったそうです)
永吉、きょうはクリスマスイヴだけど、おまえの家はこういうの食えないだろう
と、言ったそうで、
矢沢さんが黙って見ていると、鉄工所の息子は、
欲しいか。ちょっとなめさしてやろうか
と、言ってきたそうで、
矢沢さんは、たまらず、
うん、なめさして、なめさして!
と、言ったところ、
鉄工所の息子は、
そうか、なめたいか
と、言いながら、(さも飽きたという顔をしながら)ケーキをパッとちぎり、矢沢さんに投げつけてきたというのです。(そのケーキは矢沢さんのほっぺたにぺちゃっとくっついたそうです)
矢沢さんは、その時のことについて、
その時、オレがどうしたと思う?「てめえ、この野郎」と殴りかかる?いや、ちがう。世の中って劇画じゃないんだ。
オレは口惜しかったから、すぐにはなめなかった。けどそれをなめたんだ。落ちないでくれ、頬っぺたから。落ちないでくれさえすれば、あいつがいなくなってからなめられる。そいつが横を向いてる時に、舌をのばしてなめた。
と、告白されているのですが、その頃から、「誰よりも金持ちになってやる」という気持ちが強力になっていったそうです。
ちなみに、それから約10年後、その鉄工所の息子の家は倒産したそうで、その息子がみすぼらしく歩いている姿を目にし、
ざまみろ
と、思われたそうです♪
「矢沢永吉の少年時代の夢は板金屋の親方?愛読書は「人を動かす」だった!」に続く