バンド「ザ・ベース」結成以来、メンバーの変遷を経て、「ヤマト」として活動を開始した、矢沢永吉(やざわ えいきち)さんは、たちまち人気を博すのですが・・・すったもんだの末、後に伝説のバンドとなる「キャロル」が結成されます。
「矢沢永吉の最初のバンドは?ザ・ベース⇒イーセット⇒ヤマト⇒キャロル!」からの続き
新バンド「ヤマト」が人気を博すも・・・
バンドの能力向上を図るため、無能なメンバーを切り離し、使える者をピックアップした結果、新バンド「ヤマト」として再スタートをきった矢沢さんは、1971年、21歳の時、横浜駅西口にあるディスコ「グルッペ」でライブ活動を開始すると、たちまち人気を博します。
しかし、次第にディスコは衰退していき、活動の場が少なくなっていったそうで、そのため、しかたなく、キャバレーに演奏の場をシフト。
それでも、お正月以外は1年間毎日出演し、精力的に活動を続けていたのですが・・・
そんな折、矢沢さんが親知らずを腫らしたこと(虫歯が化膿)が原因で体調を崩し、1ヶ月もの間、「ヤマト」を離れてしまいます。
メンバーが全員辞め「ヤマト」解散
すると、この矢沢さん不在の1ヶ月間で、みるみるメンバーの結束力は弱まり、サイドギターとドラムが脱退してしまったそうで、
1ヶ月後、矢沢さんが復帰し、代わりのメンバーを探すために楽器店に貼り紙を貼り、メンバーを募集するも、なかなか良い人材は集まらず、ついには、最後まで残っていた木原さんまでもが辞めてしまいます。
(木原さんご本人によると、万が一、これから、新しいメンバーが入ってきたとしても、一から立て直さないといけないと思うと、矢沢さんを一人にするのは気が引けつつも、それほどのエネルギーがなく、脱退を選ばれたとのことでした。)
こうして、1972年、「ヤマト」は、横浜市立大学講堂のライブを最後に解散。矢沢さんは、ひとりぼっちになってしまったのでした。
ジョニー大倉との出会い
「ヤマト」で芸能界デビューを望むも、これからという時にメンバー全員に去られてしまい、たったひとりぼっちになって、ひどい挫折感に襲われた矢沢さんですが、
それでも、なんとかこの状況を抜け出すため、新しいバンドを作ろうと、1972年4月、川崎駅近くの「イトウ楽器店」に、
ビートルズとロックンロール好きなヤツ、求ム!
と、自ら書いた貼り紙でメンバーの募集をかけると、
メンバー募集に連絡してきた人の友人だった内海利勝さんを見て、そのルックスを気に入り(ギターは決してうまくなかったそうです)、4~5時間、口説いてメンバーに。
その後、もともと、ディスコ「グルッペ」で会い、軽く話をしたことのあった、元バンド「ジュリア」の大倉洋一(ジョニー大倉)さんから電話があると、
京急川崎駅で待ち合わせをして、近くの喫茶店で2~3時間話をした結果、ジョニーさんもメンバーに加わります。
「キャロル」結成
こうして、矢沢さん、大倉洋一(ジョニー大倉)さん、内海利勝さん、今井茂利さんの4人で結成された「キャロル」は、1972年8月、横浜・伊勢佐木町のディスコ「ピーナツ」でビートルズのコピーバンドとして、ハンブルク時代のビートルズのロッカーズスタイルを真似て、初演奏すると、注目を集め、
その後は、京浜地区のゴーゴーホール(ディスコ)やナイトクラブ等でもライブ活動を展開するようになり、東京・蒲田にある名門キャバレー「ウラシマ」にも出演するなど、破竹の快進撃が始まったのでした。
「キャロル」結成当初はマッシュルームカットだった
ところで、「キャロル」のトレードマークといえば、「革ジャン・リーゼント・ロックンロール」ですが、このようなバンドコンセプトを作ったのは、ジョニー大倉さんだったそうです。
(左から)ジョニー大倉さん、内海利勝さん、矢沢さん、ユウ岡崎さん。
ジョニーさんは、「ビートルズ」の本の中にあったハンブルク時代の写真を見て、「これしかない!」と、思いつき、リーゼントにしていたそうですが、当時は、リーゼントでエレキギターを持っていたら、笑われていたそうで、
ジョニーさんが「キャロル」に加入するため、矢沢さんと京急川崎駅の近くの喫茶店で会った時も、矢沢さんは、吉田拓郎さんの様に髪の毛を肩まで伸ばしており、リーゼントのジョニーさんを見て笑っていたとか。
ただ、矢沢さんは、著書「成りあがり」の中で、
革ジャン・リーゼント・ロックンロールというアイデアは、キャロル前のバンド「ヤマト」の頃からの構想だった
と書いておられ、その趣旨はよく分かりません。
(しかも、矢沢さんは、「キャロル」結成当初は、マッシュルームカットだったそうです)
マッシュルームカットの矢沢さん。
「矢沢永吉のデビューはミッキーカーチスがプロデュース!内田裕也もオファー?」に続く