バンド「ヤマト」ではメンバーが次々と辞めてしまい、たった一人になってしまった、矢沢永吉(やざわ えいきち)さんですが、新たなメンバーとともに、新バンド「キャロル」を結成すると、快進撃を続け、1972年、音楽番組「リブ・ヤング」に出演したことがきっかけで、ついにレコードデビューのチャンスをつかみます。
「矢沢永吉のキャロル結成前後は?ジョニー大倉との出会いは?」からの続き
ミッキーカーチスからオファー
ジョニー大倉さん、内海利勝さん、今井茂利さんの新メンバーを迎え、新バンド「キャロル」で快進撃を続けた矢沢さんは、
1972年10月には、勢いに乗り、フジテレビ「リブ・ヤング」の「ジルバが踊れる子募集」(「ロキシー・ファッション 出演者募集」という説も)にバンドで応募するも、断られてしまいます。
それでも、その後、何度もしつこくフジテレビに電話をかけ、何度もデモテープを持って行って食い下がると、ついに、「キャロル」として、「リブ・ヤング」出演を果たします。
すると、この「リブ・ヤング」(生放送)を自宅でを見ていたミッキーカーチスさんから、番組プロデューサーに
レコーディングしたいから、彼らを(先約がかかる前に)押さえておいて欲しい。
と、連絡があったそうで、
その後、矢沢さんは、ミッキーさんと電話で話し、契約が成立したのでした。
ちなみに、ミッキーさんは、自宅のテレビで、矢沢さんたちが演奏する姿を見て、衝撃を受けると同時に、「これだ!」と直感されたそうで、
すぐにテレビ局に電話して、矢沢と話し、翌日会った。矢沢の魅力は何といっても色気。これに尽きる。矢沢は「金持ちになりたい」っていった。このギラギラした目と、醸し出される色気にゾクゾクしたよね。
と、明かされています。
内田裕也からもオファーを受けていた
ちなみに、この時、「リブヤング」には、内田裕也さんも出演されており、内田さんは、番組終了後、矢沢さんにオファーを出したそうですが、
矢沢さんは、ミッキーさんか、内田さんかで迷われた末、デビューまでの話が具体的だったミッキーさんを選ばれたのだそうです。
シングル「ルイジアンナ/最後の恋人」でレコードデビュー
そして、「キャロル」は、「リブ・ヤング」出演後、わずか10日後には、「日本フォノグラム」(現在のユニバーサルミュージック)と専属契約を結ぶのですが、
デビュー曲「ルイジアンナ」のレコーディング直前に、ドラムス担当の今井さんが、
体が弱いからプロになるのはイヤだ
と、脱退。
そのため、ミッキーさんの紹介で、ユウ岡崎さんが正式メンバーとして加わり、1972年12月20日、ミッキーさんプロデュースのもと、シングル「ルイジアンナ/最後の恋人」でデビューすると、大ブレイク。
デビューシングル「ルイジアンナ」
以降、
1973年1月「ヘイ・タクシー/恋の救急車」
2月「やりきれない気持ち(シングルバージョン)/ホープ 」
3月「レディ・セブンティーン/愛の叫び」
4月「彼女は彼のもの/憎いあの娘」
5月「0時5分の最終列車/二人だけ」
6月「ファンキー・モンキー・ベイビー/コーヒー・ショップの女の娘」
と、ミッキーさんのアイディアで、1972年12月から1973年6月までの7ヶ月間、連続でシングルをリリースすると、社会現象になるほどのブームを巻き起こし、
当時のミッキーさんをして、
昔、オレ達がやってた時は、楽器ひけるヤツも少なかったし、英語はメチャクチャ、かっこばかりのロックン・ローラーだったけど、キャロルは違うんだ。
曲は全部自分達で書くし、楽器はやるし、何といってもリズムのノリが違うよ。日本もここまできたのかと正直、驚いているんだ。
と、言わしめたのでした。
蒸発した母親に20年ぶりに再会していた
こうして、「キャロル」で大ブレイクを果たした矢沢さんですが、実は、「キャロル」でのデビュー直前の1972年の初夏、プライベートでは、川崎で、約20年ぶりに実のお母さんに再会されていたそうです。
矢沢さんは、自分を捨てたお母さんを、
会ったら殺してやる
と、思うほど、ずっと憎んでいたそうですが、
いざ、再会を果たすと、その瞬間、お母さんが泣き出し、矢沢さんも泣き、お母さんのすべてを許したそうです。
その後、お母さんが矢沢さんの部屋に来て、矢沢さんが注文していた(1000円位の)お寿司が届くのですが、お母さんは、まだ貧乏だった矢沢さんが用意してくれたお寿司を見て、黙ってしまったそうで、
矢沢さんが、
お母さん、食べて
と、言うと、
お母さんは、
あァ、いただくよ
と、言いながら、またポロッと涙をこぼしたそうです。
そして、お母さんは、お寿司を食べ終わると、
せいいっぱいしてくれて、うれしかった
と言い、その後、バッグを開けて、結婚指輪を取り出し、奥さんに渡してほしいと言うと、
(矢沢さんは、この年に結婚されたのですが、まだ、お金がなく、奥さんに結婚指輪を買ってあげることができなかったそうです。)
続けて、
子供もできることだし、お母さんに、ちょっと、できることだけさせてくれないか。欲しいものは何かあるか
と、聞いてきたそうで、
矢沢さんが、
別にないけど・・・・
と、答えると、お母さんはざっと部屋の中を見渡し、
何もないね
と、一言。
その後、矢沢さんは、お母さんと一緒に秋葉原へ行ったそうで、
お母さんは、
これは、おまえに買うんじゃない。奥さんに買うんだ
と、言いながら、電気冷蔵庫、炊飯器、アイロンを買ってくれ、出産費用として15万円も置いていってくれたそうで、矢沢さんは、シャクに思いながらも、先立つものが欲しく、ありがたく受け取ったそうです。
そして、お母さんが帰る時間になり、駅まで見送りに行くと、お母さんは、電車が出てもずっと手を振っていたそうです。
それを見た奥さんが、
お母さん、最後みたいな顔で、ずうっと見てたね
と、言ったそうですが、ほどなくして、お母さんは「脳溢血」で他界。
矢沢さんがお母さんに会ったのは、本当にそれが最後となったのでした。
(矢沢さんは、お母さんが他界したことを、2ヶ月間知らなかったそうです)