テレビドラマ「白い巨塔」の放送が残り2話となった12月28日、愛用の散弾銃で、自らの心臓を撃ち抜いて、自殺された、田宮二郎(たみや じろう)さんですが、田宮さんを死に追い込んだものはいったい何だったのでしょうか。
「田宮二郎の死因は愛用散弾銃による自殺!直前には死体役を演じていた!」からの続き
映画スターになった後も大映から冷遇されていた
田宮さんの妻・幸子さんによると、お二人は、1963年に初めて共演されると、ほどなくして、交際が始まるのですが、お互いギャラを打ち明け合うと、幸子さんのギャラが1本25万円だったのに対し、田宮さんのギャラは1本10万円だったそうで、そのことにとても驚かれたそうです。
というのも、幸子さんは、当時、「松竹」から「大映」に移籍してまだ間もない新人女優だったのですが、一方、田宮さんというと、「悪名」シリーズや「黒」シリーズが大当たりし、人気俳優としての地位を確立した、紛れもない、「大映」の看板俳優だったからです。
しかし、すべての決定権は、「大映」の社長・永田雅一氏が握っており、もともと、「大映」の大部屋俳優出身の田宮さんは、どれだけ映画が当たっても、「格」として認められなかったのでした。
結婚生活は順調だったが・・・
それでも、田宮さんは、永田さんを敬愛し、そんな永田さんが率いる「大映」にすべてを捧げていたそうで、年下の新人女優のギャラが自分より高いといった不満もぐっとこらえていたそうです。
(実際、家を建てたのも、まだ20代前半だった幸子さんの方が先だったそうです。)
そんな中でも、
今思えば、私が母と住んでいる家に田宮が越して来た頃こそ、最も笑いが絶えない日々でした。私は田宮が連れて来る10人分、15人分のメニューを用意する毎日。
メインの料理だけでなく、田宮が好きだった麻雀が始まれば、そこでうどんやお寿司を用意するのも私の役目。
と、幸子さんは、結婚生活は順調だったことを明かされています。
大映社長・永田雅一への忠誠心から耐え忍ぶ日々
その後、田宮さんは、幸子さんが建てた家よりも、大きな邸宅を構えるのですが、この邸宅に、永田氏が訪ねてきた時のこと、田宮さんは色紙を用意し、永田氏に、
一筆したためてほしい
と、お願いしたことがあったそうですが、
永田氏は、そこに「忍」の一文字だけを書いたそうです。
永田氏が、どのような意図で、この「忍」を書いたのか定かではありませんが、「要所要所で忍耐を強いてきたことへの詫び」とも「さらに事態が複雑化することへの予言」とも考えられています。
実際、この頃の「大映」の経営は悪化の一途をたどっていたこともあり、嫉妬などから、役者、スタッフにかかわらず、田宮さんを引きずりおろそうとする人間も出てきたそうで、勝新太郎さんと共演した「悪名」シリーズでは、シリーズ後半になると、田宮さんのセリフは激減。
もちろん、勝さんが主演ではあるものの、どちらかというと、軽妙な田宮さんの演技がヒットの要因だったにもかかわらず。
ところが、永田氏はというと、田宮さん宅に夕食を食べに来ては、「田宮を世界で売り出す」と、威勢のいいことを言うばかりだったそうです。(「永田ラッパ」と言われていたそうです))
大映・永田雅一に裏切られる
しかし、そんな中、1968年、映画「不信のとき」のポスターでは、主演であるはずの田宮さんがまさかの4番手の序列。
さすがに、田宮さんもこの仕打ちには耐えられず、幸子さんを伴い、永田氏の元へと抗議に出向いたのですが、
(永田さんの)タバコを持つ手がグラグラと揺れていました。永田さんには「我慢してくれ」と言われましたが、結局、このことで大映を追われる形になってしまいました。
と、幸子さんによると、永田氏の様子も尋常ではなかったとのこと。
それでも、田宮さんは折れなかったことから、永田氏は激昂。「五社協定」を持ち出し、田宮さんを映画やテレビドラマで使うなと通達を出したのでした。
(幸子さんは、この時、永田氏と「大映」が田宮さんを裏切ったと確信したそうです。)