俳優養成所を卒業して俳優への一歩を踏み出すも、東映撮撮影所にはライバルが多かったことから、なかなか芽が出ず、通行人など端役の日々が続いた、小林稔侍(こばやし ねんじ)さんですが、高倉健さんの存在がそんな日々を支えたそうです。
「小林稔侍の若い頃は東映ニューフェイスも通行人の役ばかりだった!」からの続き
高倉健との出会い
通行人など端役の日々が続く中、ある時、小林さんは、同期のニューフェイスとともに、先輩の高倉健さんのところに挨拶に行かれたことがあったそうです。
すると、その時は、女優が前に出て挨拶をしたことから、小林さんは、隙間から様子を伺うだけだったそうですが、その後、廊下で高倉さんとすれ違った時、
高倉さんが、
稔侍、頑張れよ
と、小さい声で言ってくれたそうで、
当時、端役ばかりの日々が続く中、心が折れそうだった小林さんは、それが嬉しくして嬉しくて仕方がなく、
俺は芽が出なくてもいい、この人と一緒にいられればいい
とまで思うようになったそうで、この時、ずっと高倉さんについていこうと決意。
それ以来、小林さんは、高倉さんが亡くなるまで敬愛し続けたのだそうです。
(高倉さんは、徒党を組まなかったため、そんなところも良かったそうです。)
若かりし日の小林さんと高倉健さん。
付き人ではなく友人
それではここで、小林さんが高倉さんを敬愛しているエピソードをご紹介しましょう。
高倉さんは、小林さんに、
稔侍、俺とおまえは友達だから、付き人みたいな真似は絶対にするな
と、言っていたそうで、
小林さんが、高倉さんが手に持っているバッグや荷物などを、
旦那、持ちましょうか
と言っても、絶対させなかったそうです。
若かりし日の高倉健さんと小林さん。
(高倉さんは、当時、映画業界では、「旦那」と呼ばれていたため、小林さんも、そう呼ばせてもらっていたそうです。)
さりげない心遣い
高倉さんは、酸素風呂で、風呂の番をしているおじいちゃんに、心づけを渡されていたそうですが、そのさりげなさが実にかっこよかったそうです。
また、小林さんは、高倉さんと出会うまでは、タクシーや車のドアをいつもバターンと思い切り閉めていたそうですが、
高倉さんが、
稔侍、車のドアってのは5cmあれば閉まるんだよ
と、教えてくれたそうで、
以来、小林さんは、今でも、車を乗り降りするたびにその言葉を思い出すそうです。
飛行機には一緒に乗らない?
ただ、
これは笑い話みたいなものですが、映画「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年公開)の撮影が終わり、飛行機に乗って帰ったときのことです。そのときは疲れ果てて、僕は靴も靴下も脱いで素足になって寝ていました。
それから10年くらい経ってからですよ、突然、「稔侍とは飛行機には絶対一緒に乗らない」って言うんです。何の話かなと思ったら「野蛮人じゃあるまいし、飛行機の中で裸足になりやがって」と。
と、10年も経ってから言われたそうで、高倉さんは執念深いそうです(笑)
映画「鉄道員(ぽっぽや)」より。(左から)大竹しのぶさん、高倉健さん、小林さん。
50年間夕食を共に
そんな高倉さんとは、なんと、50年もの間、夕食を共にされるほど、私生活でも親しく、高倉さんと仕事をすると緊張する、という俳優が多い中、小林さんは一番楽しかったそうで、
晩年、高倉さんがある人にこう言ったそうです。「稔侍は本当のことを教えてくれるからいいんだ」って。僕は思ったことを素直に言っていただけなんですが…
でも「おまえに言われる筋合いじゃねえよ」ってこともあったと思うんです。高倉さんが飼い主なら、僕は子犬みたいなもんです。じゃれているけど、度が過ぎればポンと頭を叩かれる(笑)。
今度の映画でいえば、少年を導いてゆく寡黙な豆腐屋の職人が高倉健さんで、少年は昔の僕なんです。いろいろ思い出し、感謝しながら僕は演じていました。
と、今でも、高倉さんを敬愛する気持ちに変わりがないことを明かされていました。