映画スター・阪東妻三郎さんを父に持ち、裕福な家庭で何不自由なく育たれた、田村正和(たむら まさかず)さんは、やがて、お父さんの影響を受け、映画俳優を目指されます。
「田村正和の生い立ちは?父親と4人兄弟の3人が俳優!」からの続き
「永遠の人」で映画デビュー
映画スターのお父さん・阪東妻三郎さんのもと、裕福で何不自由なく育った田村さんですが、田村さんが9歳の時には、お父さんが51歳で他界。
(翌年には、一家で東京の世田谷区成城に転居されていますが、それでも、数千坪の敷地に300坪の運動場がある豪邸に住まわれていたそうです)
やがて、田村さんは、お父さんの跡を継いで俳優になることを決意されたそうで、その後、1960年、お兄さんの田村高廣さんが主演の映画「旗本愚連隊」の撮影を見に行った際、「松竹」にスカウトされて、この映画で端役として出演されると、
「旗本愚連隊」より。田村高廣さん(左)と田村正和さん(右)。
翌年の1961年には(高校在学中)、「永遠の人」で本格的に映画デビューされます。
田村さん(左)と仲代達矢さん(右)。
デビュー当初はぱっとせず
以降、田村さんは、
映画では、
1962年「今年の恋」
「お吟さま」
1964年「海抜0米」
「この空のある限り」
「乞食大将」
1965年「われら劣等生」
「ぜったい多数」
「俺たちの恋」
「昨日のあいつ今日のおれ」
「裸の青春」
「この声なき叫び」
「われら劣等生」より。(左から)いしだあゆみさん、田村さん、高石かつ枝さん。
「昨日のあいつ今日のおれ」より。田村さんと荒木道子さん。
1966年「空いっぱいの涙」
「かあちゃんと11人の子ども」
「雨の中の二人」
「天下の快男児」
「侠勇の花道ドス」
1967年「男なら振りむくな」
「女の一生」
「無理心中 日本の夏」
「無理心中 日本の夏」より。田村さんと桜井啓子さん。
テレビドラマでは、
1963年 NHK大河ドラマ「花の生涯」
1964年 NHK大河ドラマ「赤穂浪士」
NHK大河ドラマ「樅の木は残った」
「風雪」第1回・第20回
1965年 NHK大河ドラマ「太閤記」
「破れ太鼓」
「人形佐七捕物帳」第35話
1966年「木下惠介劇場『記念樹』」
NHK大河ドラマ「源義経」
「新吾十番勝負」
「記念樹」より。馬渕晴子さんと田村さん。
「新吾十番勝負」より。
と、次々と出演されるのですが・・・ぱっとせず。
特に映画は、1960年代だけで34本も出演されているのですが、主演はわずか6本で、お父さんやお兄さんのように成功を収めることができず、1967年には、「松竹」を退社し、フリーに。
その後も、地味めで暗いルックス、聞き取りづらい声から、なかなか日の目を見ることがなく、脇役ばかりが続くのですが、1970年、テレビドラマ「木下惠介・人間の歌シリーズ『冬の旅』」で、改めて存在を認識されて人気に火がつくと、次第に、繊細な二枚目役に起用されるようになっていきます。
「眠狂四郎」でブレイク
そして、1972年には、テレビ時代劇「眠狂四郎」の主人公「眠狂四郎」役に起用されると、たちまちブレイク。
「眠狂四郎」より
「眠狂四郎」はこれまで何度も映像化され、市川雷蔵さんほか名だたる銀幕のスターが演じられてきたのですが、原作者の柴田錬三郎さんが、別の作品に出演していた田村さんを見初め、
狂四郎はぜひ田村に
と、抜擢されたそうで、
田村さんも、また、
原作者から名指しされたのは光栄。僕にとって、「眠狂四郎」は大事な作品です。
と、語っておられます。
時代劇「若さま侍捕物帳」で新境地を開拓
その後も、田村さんは、
1972年「世なおし奉行」
1973年「新書太閤記」
1974年「度胸時代」
「運命峠」
1975年「徳川三国志」
「青銅の花びら」
「世なおし奉行」より。左が田村さん。
1976年「さくらの唄」
「私も燃えている」
1977年「悲曲・禁じられた愛」
「砂の器」
「鳴門秘帖」
1978年「若さま侍捕物帳」
「鳴門秘帖」より。田村さんと三林京子さん。
などのテレビドラマに出演されると、特に、「鳴門秘帖」では、陰影のある哀愁が漂うルックスが女性ファンを中心に人気を博して、「憂愁の貴公子」と呼ばれるようになり、
1978年には、一転、時代劇「若さま侍捕物帳」で、明るくコミカルな演技を披露し、新境地を開拓されています。
「田村正和の若い頃はうちの子にかぎってほか3枚目役でもブレイク!」に続く
「若さま侍捕物帳」より。