付き人をやりながらも、相方を見つけてコンビを組み、営業までして、一時は自身のお笑いコンビ「マックボンボン」で冠番組を持つも、相方に恵まれず、再び、ただの付き人に逆戻りしてしまった、志村けん(しむら けん)さん。しかし、この後、ついに、「ザ・ドリフターズ」の正式にメンバーに加わり、快進撃が始まります。
「志村けんの若い頃は付き人しながらマックボンボンというコンビで冠番組も!」
記憶障害を患った父親が他界
お笑いコンビ「マックボンボン」を結成するも、1度ならずも2度も相方に裏切られてしまい、再び、「ザ・ドリフターズ」の付き人に戻ることを余儀なくされた志村さんですが、プライベートでは、1973年5月、お父さんが54歳の若さで他界。
厳格だったお父さんですが、1962年に交通事故に遭うと、その三年後には、記憶障害となって学校を休職。その後は、町を徘徊するようになり、志村さんが付き人になろうと決意した頃には、物事の判断がほとんどできない状態で、志村さんの決意に反対することもなかったそうです。
ちなみに、志村さんは、テレビの収録直前に、お母さんからの電話でお父さんの死を知り、すぐ実家に駆けつけたそうですが、
後に、その時のことを、
(亡くなった父の)顔は見れなかった
と、おっしゃっています。
(志村さんは、コント「爺さん」は、そんなお父さんをモデルにしたものであると、自身の著書「変なおじさん」で明かされています)
荒井注と入れ替わりで「ザ・ドリフターズ」の正式メンバーに
こうして、付き人に逆戻りとなったうえ、プライベートでは、お父さんも亡くしてしまった志村さんですが、1973年12月には、急遽、「メンバー見習い」という扱いで、「ザ・ドリフターズ」への加入が決まると(同時に「志村けん」と改名されています)、
4月1日には、荒井注さんと入れ替わりで、正式に「ザ・ドリフターズ」に加入。「8時だョ!全員集合」に出演することとなります。
ドリフ加入は加藤茶の後押しのお陰
実は、リーダーのいかりや長介さんは、当初、脱退した荒井さんの代わりには、荒井さんと同い年だった豊岡豊さんを加入させようとしていたそうですが、
これに、加藤茶さんが反対し、
せっかくなんだから、うちと一緒に回ってて、作り方も全部知ってるし、考え方も同じヤツって言ったら志村しかいない。
と、付き人をしていた志村さんを入れるよう主張したそうで、
加藤さんは、2018年、「たけしが行く!わがままオヤジ旅3」に出演された際、
あの時ね、きつかったのよ、俺。しんどくて、ネタもあんまり出なくなってきてた。
と、志村さんの加入を後押しした理由を語っておられます。
最初の2年はギャグが受けずにスランプも・・・
ただ、もともと、ドリフの笑いは、
嫌われ者のいかりや、反抗的な荒井、怒られまいとピリピリする加藤、ボーッとしている高木、何を考えているんだか分からない仲本。
という、人間関係の笑いが持ち味だったことから、荒井さんの抜けた穴は大きく、人気は低迷。
(そのため、いかりやさんは、荒井さんと同い年で、似たようなキャラクターだった豊岡豊さんを加入させようとしていたそうです。)
志村さんのギャグは、観客にあまりウケず、スランプに陥ってしまったのでした。
「東村山音頭」などでブレイク
それでも、それから2年後、番組会議が煮詰まる中、志村さんが何気なく、「東村山音頭」(志村さんの故郷・東京都東村山市のご当地ソング)を歌ったところ、
それを聴いたいかりやさんから、
舞台でやってみろ
と、言われ、舞台で志村さんが「東村山音頭」を歌うと、これが観客に大ウケ。
志村さんは、その後も、プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、「カラスの勝手でしょ」「ピカピカの1年生」「ヒゲダンス」「最初はグー」など、次々とギャグを量産すると、観客を沸かせ、全国のお茶の間の子どもたちの間には大ブームを巻き起こしたのでした。
こうして、志村さんの活躍で、「8時だョ!全員集合」の視聴率はうなぎのぼりとなり、志村さんは、もはや、「ザ・ドリフターズ」になくてはならない存在となったのでした。
「志村けんは8時だよ直後も加藤茶とのコンビで再ブレイクしていた!」に続く
https://www.youtube.com/watch?v=fkdsvAbezj4