放蕩癖のあるお父さん・菊次郎さんと、働き者のお母さん・さきさんの間に誕生した、ビートたけしさんは、貧乏ながらも、教育熱心なお母さんの指導で、少年時代から成績優秀だったそうです。
「ビートたけしの父母兄弟は?母親の生い立ちが壮絶過ぎる!」からの続き
農業と職人の町で生まれ育つ
こうして、夜逃げ同然で逃げ出し、足立区島根町に移り住まれた、菊次郎さんとさきさんの間に、たけしさんは、5人兄弟の末っ子として誕生すると、
たけしさんいわく、
うちの近所は、お百姓さんと職人しかいなかったようなところだから。向こう三軒両隣も左官屋、大工、水道橋、サッシ屋とかだしさ。もう、つるんで仕事してるんだもん。
と、農業と職人の町で育ちます。
父親がペンキ塗りに転職するも稼げず母親の内職で生計
ちなみに、お兄さんの北野大さんによると、当時はまだ、カラートタンも合板もなかったため、家を建てる時は、屋根から樋(とい)、羽目板、廊下、ときには壁まで、ペンキ塗りの仕事はいくらでもあり、それを5~6軒も請け負えば、ゆうに一ヶ月暮らせたそうで、
お父さんの菊次郎さんは、足立区に引っ越してからは、漆塗り職人からペンキ塗りに職を替えられたそうです。
お父さんの菊次郎さん。
ただ、地元の職人たちから素人と軽んじられ、なかなか仕事を回してもらえなかったそうで、家族ぐるみの付き合いをしていた隣に住む工務店から、建築の刷毛仕事を請け負っていたものの、大して稼ぐことができず、そのうえ、元来の放蕩癖もあり、家にお金を入れることができなかったそうです。
その分、お母さんのさきさんが内職で稼ぎ、せっせと貯金をされていたそうで、太平洋戦争が始まる頃には、家を建てることができる貯金は貯まっていたそうです。
教育ママだった母親の影響で小中高と成績優秀だった
そんな生活の中、たけしさんは、(血はつながらないものの)おばあさんである北野うしさんには、とても可愛がられるも、お母さんのさきさんからは、とても厳しく育てられます。
というのも、さきさんは、幼い頃、まともな教育を受けておらず、貧乏の悪循環を断ち切るためには教育しかない、と思い込んでいたそうで、
いつも寝る前には、子どもたちの鉛筆を削り、教科書やノートの点検、さらには、子ども達が学校に行くと、必ず、窓の外からちゃんと授業を受けているか確認されたというのです。
お母さんのさきさん。
そんな教育熱心なお母さんのお陰か、たけしさんは小学校時代、成績は優秀で、特に算数と図工が得意だったそうで、
小学校卒業後は、お母さんが進学校を希望され、近隣の中学校ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学。
中学校卒業後は、
おいらの時代、トップは都立が上野で私立は開成だった。うちの高校はそういう所が駄目だった奴が来るから、決して頭は悪くないんだけど、ワルだった。
と、当時、偏差値の高かった足立高等学校に進学されたのでした。
母親がヨイトマケで学費を工面
ところで、お父さんの菊次郎さんは、次第に地元の人達から受け入れられるようになっていったそうで、1964年1月に足立区島根町で掲げられた、区民が寄贈した築棟(ちくとう。建築関係者が上棟式で掲げる棟札の一種)には、大工、鳶などの建築職人の連名とともに、「ペンキ 北野」という名前が残っているそうですが(足立区立郷土博物館が所蔵)、
1964年は高度経済成長の真っ最中で、島根町周辺も、田んぼや畑、池をつぶして、次々と住宅が建つようになったそうです。
そのため、「ヨイトマケ」と呼ばれる、重い槌(つち)を滑車で上げ下ろしして地固めをする作業に、近所の主婦たちもよく携わっていたそうですが、たけしさんのお母さん・さきさんもその一人だったそうです。
北野家では、すでに、一番上のお兄さんの重一さんが、大学卒業後、就職し、家計を支えるようになっていたそうですが、それでも、お母さんは内職を続け、さらには、西新井大師の団子屋でアルバイトやヨイトマケをしながら、子どもたちの学費を工面されたのだそうです。
長兄の重一さん。
ちなみに、ちょうどこの頃、歌手の美輪明宏(当時・丸山明宏)さんが「ヨイトマケの唄」をリリースし大ヒットしているのですが、
同じ頃(1965年)、明治大学に入学されたたけしさんは、
あれが悲しい歌とは全然思わなかった。したら美輪(明宏)さんが「ヨイトマケの子供、きたない子供」って歌って、「あ、俺んちきたない子供だったんだ!」って初めて気がついたっていう(笑)
と、後に著書「やり残したこと」に綴っておられます。
「ビートたけしが芸人を志したのは浅草フランス座のエレベーター番から!」に続く
お母さんのさきさんとたけしさん。