1999年「神出鬼没!タケシムケン」での共演以来、一緒に飲みに行くようになり、お互い「けんちゃん」「たけしさん」と呼び合うなど絆を深めたという、ビートたけしさんと志村けんさんですが、お二人は、お互いをどのように思っていたのでしょうか。
「ビートたけしと志村けんの仲は?タケシムケンで共演していた!」からの続き
志村けんはたけしの「オールナイトニッポン」を見学していた
放送作家の高田文夫さんによると、1980年代後半頃、たけしさんと高田さんが深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」を生放送中、志村けんさんが、
ちょっと勉強させてください
と、訪ねてきて、最後まで聞いていかれたことがあったそうです。
ちなみに、高田さんが、放送終了後、
どうですか?
と聞くと、
志村さんは、
到底、私にはできない仕事です
と言って、帰って行かれたそうですが、
高田さんは、
周りの人がみんな「オールナイトとかやりませんか?」ってたぶん声をかけたんだと思うんだよ。でもしゃべりになると、たけしさんがいたから。ウワーッとしゃべるだろう?「ああ、これは勝てない」っていう。
だから「自分は作り物のコントを作っていこう」っていう。そっちでそういうライバルがいたから、余計によかったんじゃないかな?だから志村さんは自分の方のコントの役作りを。それでバカ殿とか変なおじさんとか、そういうのを作っていったわけで。
と、おっしゃっていました。
たけしと志村けんは良きライバルだった
そんな志村さんは、2015年、たけしさんと林修さんがMCを務めるバラエティ特番「日本人として知っておくべき 戦後の51人」に出演された際、
「8時だョ!全員集合」と同じ時間帯に放送されていた「オレたちひょうきん族」について、
『8時だョ!全員集合』を生放送でやっていたので、一度も見たことがなかった。ビデオも無い時代だったので時間をずらしてくれれば見られたのに。
と、残念がっておられたのですが、
一方、たけしさんは、
『オレたちひょうきん族』ではドリフに対抗して、全く正反対のことをやろうと言っていた。自分もドリフみたいな団体芸をやりたくて、たけし軍団を作った。
と、ドリフをライバル視していたことを明かされています。
たけしが志村けんを絶賛
そして、2020年3月、志村さんは他界されるのですが、
たけしさんは、
漫才ブームの後で『ひょうきん族』をやったのは、なんとかドリフを追い抜こうとしたから。ドリフは、ちゃんと作った計算されたお笑い。
お菓子で言えば『大納言』とか、ちゃんとした砂糖と小豆の味。『ひょうきん族』は完全にテレビの裏側まで見せる人工甘味料だった。
人工甘味料と本物の味でやったけど、どうしても人は新しいものに目が動くから、いい勝負で追い抜いちゃったこともある。でも、そうしたら結果的に両方ともダメになっちゃったの。
俺は映画(監督)やラジオ(パーソナリティー)に行ったりしたけど、志村のけんちゃんは今度は加藤(茶)さんと組んで、ちゃんとした正当な東京のコントをやったの。
そこに関西のコントが入ってきたけど、そこの防波堤だった。やっぱり、深夜(番組)までコントを続けたけんちゃんのおかげ。ずっと東京のコントの防波堤となった素晴らしい人だね。
お笑いについては俺はいろんなものに手を出したけど、この人はコント、芸人そのものだよ。コント一筋の人で中々できないですよ、こういう人は。テレビの時代が変化しても、この人はお笑いのコントというものを突き詰めていって。
でも、その代わり、けんちゃんは俺に『俺。しゃべり下手なんだよ、フリートーク下手でね』と正直に言ったけどね。
と、志村さんを絶賛。
また、
何もこれ(新型コロナ)で逝かなくたっていいじゃんってところがあるよね。いずれ人間は死ぬけど、何もこの芸人がこんなところでって思うけど、逆に考えれば、けんちゃんはいいところで収まったなって感じ。
俺はもっと(死ぬまで)苦労するのかなって思う。(志村さんは)いいところでいなくなったよって。逆に言えば、幸せじゃんって。売れたままいなくなっていくんだからって思うけど。そんなこと言うと、ファンに怒られちゃうけどね。
と、たけしさん流で志村さんを偲びつつ、
俺と(明石家)さんまは孤独死だよって言っているけど。(志村さんの死で)ちょっと鬱(うつ)になっちゃって。ノイローゼになっちゃって、何も考えなくなったね。俺は一体、どういう人生をこれから歩むんだろうまで考えたね。どうしようって。
ちょっと冷静になってくれば、やりたいと思ったことを一生懸命やるべきだと。それでしょうがないんじゃないかと。余計なことを考えるのよそうっていうことになったけどね。
と、志村さんの死に大きな衝撃を受けたことを明かされたのでした。
「ビートたけしの出演ドラマ映画と監督作品(北野武)を画像で!」に続く