1960年、15歳で「日活」に入社すると、清純派女優として人気を博していた、吉永小百合(よしなが さゆり)さんですが、浜田光夫さんとの純愛路線コンビでは、さらなる大ブレイクとなります。

「吉永小百合の若い頃はサユリストと呼ばれ社会現象を巻き起こしていた!」からの続き

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浜田光夫との「純愛コンビ」で大ブレイク

吉永さんは、1960年、映画「ガラスの中の少女」で、初めて、浜田光夫さんと共演されているのですが、1962年にも、映画「キューポラのある街」で浜田さんと共演されると、

当時、「日活」では、主力だった石原裕次郎さんらのアクション映画がマンネリ化していたこともあり、吉永さんと浜田さんの純愛映画は爆発的なヒットを記録。

その後も、2人でコンビを組んだ純愛映画、

「泥だらけの純情」(1963年)
「光る海」(1963年)
「美しい暦」(1963年)
「愛と死をみつめて」(1964年)
「私、違っているかしら」(1966年)

がヒットを記録します。


「美しい暦」より。浜田光夫さんと吉永さん。


「愛と死をみつめて」より。吉永さんと浜田光夫さん。


「私、違っているかしら」より。浜田光夫さんと吉永さん。

ちなみに、浜田さんと吉永さんのコンビ映画は、最盛期には、1ヶ月に1本という異例のスピードで封切られたそうで、お二人が1年で顔を合わさない日は数日だけだったそうです。

また、お二人は、お互い、演技をするのに相性がピッタリだったそうで、その相乗効果からか、吉永さんは、ブロマイドがあまりに売れすぎて、いつ行っても店頭にないほどの人気を博し、

当時の人気女優、松原智恵子さん、和泉雅子さんとともに、「日活三人娘」と呼ばれるなど、吉永さんが女優として最も輝いていた時代であるとも言われています。

浜田光夫が目に大ケガしコンビ解消

そして、1966年にも、吉永さんと浜田さんは、「愛と死の記録」での共演が決まっていたのですが・・・

同年7月、浜田さんが先輩俳優と飲みに行った際、先輩が酔った客にからまれ、電気スタンドで殴られると、その電球の破片が浜田さんの目を直撃。

すぐに浜田さんは病院に搬送されたのですが、医師からは、眼球を摘出した方がいいと言われる重症だったそうで、目で訴えかける演技が持ち味だった浜田さんは、「なんとか目を残してほしい」と懇願し、8時間に渡って行われた大手術でなんとか失明は免れたのですが・・・

やはり、復帰後は目の演技ができなくなってしまい、路線を変更せざるを得ず、浜田さんは、吉永さんとコンビで出演予定だった「愛と死の記録」を降板。(「愛と死の記録」での浜田さんの代役は、渡哲也さんが務められることとなりました)

これで、実質的に吉永さんと浜田さんのコンビは解消となり、吉永さんは良きパートナーを失ってしまったのでした。

(ちなみに、吉永さんは、浜田さんの病室に見舞いに訪れた際、顔を包帯でぐるぐる巻きにされた浜田さんを見て、大きなショックを受けたそうです。)

テレビ業界へ

さらに、追い打ちをかけるように、1960年代後半になって、「日活」が、やくざ映画、ニューアクション、ポルノ映画へと路線を変更していったことから、清純派女優のイメージが強い吉永さんは、次第に、テレビドラマへと活動の場をシフトせざるを得ず、

1970年には、「幕末」
        「風の慕情」

         NHK大河ドラマ「樅の木は残った」

などに出演し、お茶の間の人気を博すのですが、やはり、テレビドラマの限界なのか、映画ほどのインパクトはなく、かつての「映画スター」ほどの輝きは、失われていったのでした。


「樅の木は残った」より。平幹二朗さんと吉永さん。

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脱・清純派

そんな吉永さんは、1973年、28歳の時、ディレクターの岡田太郎さんと電撃結婚し、活動を一時停止するのですが、

約1年後の1974年、テレビドラマ「下町の女」で復帰されると、1975年には、映画「青春の門」で、主人公の伊吹信介(田中健さん)を育てる、炭鉱夫・伊吹重蔵(仲代達矢さん)の後妻・タエ役で、大人の女性としての演技を披露し、


「青春の門」より。田中健さんと吉永さん。

1980年には、映画「動乱」で、2.26事件のリーダー宮城大尉(高倉健さん)の妻役を演じられると、ここでも、艶のある演技を披露されるなど、


「動乱」より。高倉健さんと吉永さん。

清純派女優から大人の女性へのイメージチェンジに成功されたのでした。

「吉永小百合のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

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