師弟関係だった女優の有馬稲子さんと男女の関係になると、やがてプロポーズをするも、ズルズルと関係を引き伸ばしていたという、市川崑(いちかわ こん)さん。この事実を、30年以上も経過した1995年に、有馬さんが自伝「バラと痛恨の日々」で暴露しているのですが、今回は、その経緯や暴露に至った理由などについて調べてみました。

「市川崑は女優の有馬稲子と7年間も不倫関係だった!」からの続き

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萬屋錦之介からプロポーズされたことを有馬稲子から相談されていた

妻帯者でありながら、有馬稲子さんにプロポーズするも、その後もズルズルと不倫関係を続けていた市川さんですが、

有馬さんはというと、雑誌で萬屋錦之介(当時・中村錦之助)さんと対談することになり、その準備のため、萬屋さんの主演映画「獅子丸一平」を見ると、萬屋さんの花のある役者ぶりに魅了されたそうです。

そして、その1年後、有馬さんと萬屋さんは、内田吐夢監督映画「浪花の恋の物語」(1959)で共演されるのですが、撮影が始まって10日目、突然、有馬さんは、萬屋さんから結婚を前提にお付き合いをしたいとプロポーズされたそうで、

市川さんにまだ未練があった有馬さんは、市川さんにこのことを相談されたのでした。

萬屋錦之介と鉢合わせしそうになりレインコートをかぶって病室の隅に隠れた?

これに対し、市川さんは、歌舞伎の名門出身の萬屋さんと結婚してもうまくいくわけがないと、結婚に猛反対。

そして、ある時、有馬さんが「盲腸」で入院し、4時間もの手術を受けたことがあったのですが、

市川さんは、その手術が終わった日の夜、突然、病室を訪れると、見舞いの言葉も言わず、いきなり、

(萬屋さんとの)結婚をやめろ

と言って、説得を始めたのだそうです。

すると、ちょうどそこに、廊下で有馬さんの名前を呼ぶ萬屋さんの声が聞こえてきたそうで、萬屋さんと鉢合わせしそうになった市川さんは、バッとレインコートをかぶり、病室の隅の暗いところで小さくなったのだそうです。

(ただ、萬屋さんは酔っ払っており、有馬さんに声をかけるとすぐに帰ったたため、事なきを得たそうです)

有馬稲子から別れを告げられる

この一件で、有馬さんは、一人になって落ち着いて考えようとヨーロッパ旅行に旅立ったそうですが、なんと、この旅行中、市川さんに子どもが生まれたことを知ったそうで、現実を目の当たりにした有馬さんは、ついに、市川さんと別れ、萬屋さんと結婚することを決意。

そして、1ヶ月後、帰国した有馬さんは、市川さんに別れを告げたのですが・・・

なんと、市川さんは、

どうしても結婚するというなら仕方がない。その代わり、3月に1度でいいから、今までと同じように会うと約束してくれ。

どうしても別れたいなら、今まで君に注いできた愛情の責任を取れ。自分にも考えがある、明日の新聞を見ろ!

と、関係の維持を迫ったり、脅したりしたそうで、これで、有馬さんは、すっかり目が覚め、市川さんと決別されたのでした。

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有馬稲子が不倫を暴露した理由とは?

これらの事実を、有馬さんは、30年以上も経過した1995年に、自伝「バラと痛恨の日々」で告白しているのですが、

有馬さんは、2010年、「私の履歴書」でも、あらためて、市川さんが、有馬さんの結婚の1年後の1962年に制作した、赤ちゃんを取り巻く大人が大騒ぎする姿を描いた映画「私は二歳」のポスターを見た瞬間、

かつて間違いなく私の体の中にいて、ついに愛情に祝福されることのなかった子どものことを思い出して涙が止まらなくなった。

と、市川さんとの子どもを堕胎されていたことも告白。

有馬さんは、あらためて、告白した理由について、

その勝手さが今もって許せないのです

と、コメントされています。

そして、2018年には、さらに、映画評論家で映画監督でもある樋口尚文氏によるインタビューを共著という形でまとめた自伝「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」でも、市川さんへの恨みつらみが綴られているのですが、

樋口氏によると、有馬さんは、

このことは触れないわけにはいかない。お話だけさせてください。

(今も市川監督の才能は尊敬しているものの)人としてのあり方が許せない

と、涙ながらに、市川さんのことを話し始めたそうで、

樋口氏は、

子供に恵まれなかった有馬さんは現在、一人暮らし。日々のなかで、監督を許せないという思いをだんだんと募らせているようでした。子供を堕胎したことで妊娠できなくなったと、目を真っ赤にして監督への怒りを語っていました。

と、有馬さんがたびたび告白を重ねている理由を推し量っていました。

「市川崑監督のデビューからの監督映画ドラマCMを画像で!」に続く

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