幼少期から大学時代まで、才能と環境に恵まれ、何不自由なく自由奔放に過ごされていた、加山雄三(かやま ゆうぞう)さんですが、実は、大学卒業後は、一般企業への就職を希望していたといいます。
「加山雄三は高校時代に父・上原謙をスパーリングで殴っていた?」からの続き
当初は大手企業に就職を希望するも、最終的には父親のコネで芸能界入り
夏はヨットにダイビング、冬はスキー、お小遣い稼ぎはバンド活動でと、充実した慶応大学でのキャンパスライフを送られていた加山さんですが、大学卒業後は、普通に就職しようと、「アサヒビール」や「三菱商事」などの資料を取り寄せられていたそうです。
すると、そのことを知ったバンド仲間で親友の峰岸慎一さん(後の「文化放送」会長)に、お父さん(上原謙さん)のコネを使うように言われたそうで、
当初は、そんな気はなかったそうですが、峯岸さんから、
お前が大学でやったことは、スポーツと歌しかねえだろう。それを生かして金儲けして、船を作ればいいじゃないか。
と言われると、グラリときて、芸能界入りを決意されたのだそうです。
(会社員として就職する感覚だったそうです)
ただ、お父さん(上原謙さん)からは大反対されたそうで、その後、何度か言い合いになったそうですが、最終的には許してくれたそうで、1960年4月、加山さんは、「東宝」に入社されたのでした。
ちなみに、当時、加山さんは、ルックスでは二枚目俳優だったお父さんにかなわないと感じていたことから、
男は顔じゃねえ、心や体力で勝負だ!
と、思っておられたとのことでした。
「若大将シリーズ」で一躍脚光を浴びる
こうして、「東宝」に入社された加山さんは、同年、「男対男」で映画デビューすると、
「男対男」より。(左から)三船敏郎さん、加山さん、池部良さん。
翌年の1961年には、いきなり、映画「大学の若大将」で主演に抜擢され、映画も大ヒットを記録。
すると、その後、この映画は、
「大学の若大将」(1961年)
「銀座の若大将」(1962年)
「日本一の若大将」(1962年)
「ハワイの若大将」(1963年)
「海の若大将」(1965年)
「エレキの若大将」(1965年)
「大学の若大将」より。星由里子さんと加山さん。
「アルプスの若大将」(1966年)
「レッツゴー!若大将」(1967年)
「南太平洋の若大将」(1967年)
「ゴー!ゴー!若大将」(1967年)
「リオの若大将」(1968年)
「レッツゴー!若大将」より。加山さんと星由里子さん。
「フレッシュマン若大将」(1969年)
「ニュージーランドの若大将」(1969年)
「ブラボー!若大将」(1970年)
「俺の空だぜ!若大将」(1970年)
「若大将対青大将」 (1971年)
「帰ってきた若大将」(1981年)
「帰ってきた若大将」より。(左から)加山さん、田中邦衛さん、坂口良子さん。
と、シリーズ化され、加山さんは一躍人気を博したのでした。
巨大な弁当を持参していたため「ドカベン」と呼ばれていた
ところで、加山さんは、「東宝」に入社してから数年間は、砧(きぬた)撮影所まで、JR(当時は国鉄)「茅ヶ崎」から「小田急電鉄成城学園前」まで電車通勤されていたそうですが、
お母さんのアイディアで、土木作業員が持つような巨大な弁当箱を持参していたことから、「土方(どかた)の弁当」という意味で「ドカ弁」と呼ばれていたのだそうです。
「加山雄三とランチャーズの曲をベンチャーズがカバーしていた!」に続く
https://www.youtube.com/watch?v=BAR9PlDGgbU