声楽家になるため、東京音楽大学や東京藝術大学などを受験するも、不合格となってしまった、鹿賀丈史(かが たけし)さんですが、東京での大学浪人中、友人の付き合いで「劇団四季」のオーディションを受け、見事合格すると、その後は、トントン拍子に進んでいきます。
「鹿賀丈史の生い立ちは?少年時代は病弱も声楽家を目指していた!」からの続き
レッスン初日から目立っていた
東京での大学浪人中の1972年、アルバイト仲間に勧められ、「劇団四季」のオーディションを受けると、見事合格し、「劇団四季」の研究生になられた鹿賀さんは、
研究所では、演劇理論の勉強やバレエのレッスンを受けることになり、初めてのバレエのレッスンの時、先生から、タイツを買ってくるように言われたため、渋谷の「チャコット」というお店に買いに行ったそうですが、
お店では、販売員に、「何色がよろしいですか?」と聞かれ、「黒でいいです」と言うも、黒は品切れで、白ならあるということで、仕方なく白いタイツを買って帰ったそうです。
そして、初めてのレッスンに、その白いタイツをはいて行くと、(みんなは、すごい踊り手が来たと思ったのか)白いタイツ姿はとても目を引いたそうで、鹿賀さんは、レッスン初日から、思わぬことで注目を集めてしまったのだそうです(笑)
フランス・パリにて。「劇団四季」に入団した頃の鹿賀さん。右は、ジャニーズ事務所の最初のメンバーで、後に「劇団四季」で活動された飯野おさみさん。
「ジーザス・クライスト=スーパースター」で一躍脚光を浴びる
さておき、鹿賀さんは、翌年の1973年に、「劇団四季」でロックミュージカル「イエス・キリスト=スーパースター」(後の「ジーザス・クライスト=スーパースター」)を上演すると聞き、オーディションを受けられると、演出家の浅利慶太さんに早くも見い出され、なんと、いきなり、主役のジーザス役に抜擢されます。
(稽古場で、浅利さんに、「おまえ、やるか」と言われたという話もあり、オーディションは形式だけだったのかもしれません)
「ジーザス・クライスト=スーパースター」より。
ただ、まだ無名の新人だった鹿賀さんが主役では、お客さんを呼べるはずもなく、2千人収容できるはずの会場は、当初は、ガラガラ。
それでも、やがて、評判が評判を呼び、お客さんが増えていくと、千秋楽近くでは立ち見が出るなど、大盛況のうちに終了したのだそうです。
ちなみに、鹿賀さんは、公演が始まる前、初舞台にもかかわらず、会場の前で舞台化粧のまま、キャッチボールをしていたそうで、
それを見た浅利さんに、
お前もうすぐ本番だぞ!何を考えているのだ!
と、いきなり叱られたことがあったそうですが、
そんな堂々としたところも、浅利さんに気に入られていたのかもしれません。
「劇団四季」の看板俳優として活躍
以降、鹿賀さんは、「ウエスト・サイド・ストーリー」「カッコーの巣をこえて」などで、次々と主演されると、演技の枠を超えた類まれなる存在感で、「劇団四季」の看板俳優として活躍。
鹿賀さんは、後に、
「やれ!」って言われてポーンと舞台の真ん中に立たされて、それを続けていくと、いつしか舞台の上に自然に立っていられるようになっていたんですね。
最初はセリフや歌を一生懸命やろうとするのですが、何年かすると、「あ、存在することなんだ」と気がつき、だんだん過剰な演技をしなくなり…劇団では舞台をいっぱいやらせていただいて、非常に勉強になりました。
と、語っておられます。
「ウエスト・サイド・ストーリー」より。鹿賀さんと久野綾希子さん。