俳優として、50年近くに渡り、第一線で活躍し続けている、鹿賀丈史(かが たけし)さんですが、今回は、鹿賀さんが、役者として最初の一歩を踏み出した、「劇団四季」で同期だった市村正親さんとの関係についてご紹介します。
「鹿賀丈史のデビューからの出演映画ドラマ舞台を画像で!」からの続き
市村正親は鹿賀丈史にライバル心を燃やしていた
鹿賀さんは、俳優の市村正親さんと「劇団四季」の同期(年齢は市村さんが2歳年上)で、45年以上に渡って親交があり、たまにメールもするなど仲が良いそうですが、当初、市村さんは、鹿賀さんにライバル心を燃やしていたといいます。
実は、市村さんは、1973年、24歳の時に、オーディションに合格し、「劇団四季」に入団すると、同年、「イエス・キリスト=スーパースター」(後の「ジーザス・クライスト=スーパースター」)で初舞台を踏まれているのですが、
その時主演を務めていたのが、同期の鹿賀さんだったのだそうです。(しかも、鹿賀さんもこの作品がデビュー作)
市村正親は自分の容姿にコンプレックスを抱いていた
そして、その後も、鹿賀さんがずっと主演を務めていたことから、
市村さんは、
常に主役だよ。いつも主役だよ。羨ましいっていう、ジェラシーがありましたよね。
と、当時の鹿賀さんに対する気持ちを明かされているのですが、
「ジーザス・クライスト=スーパースター」より。鹿賀さん(左)と市村正親さん(右)。
もともと、市村さんは、
前歯も欠けていて人前で笑うのが好きじゃなかった。いつも笑うときに下を向いて、暗い子だった。コンプレックスの塊ですよ
と、自分の容姿に自信がなかったそうで、
そのうえ、オーディションの際には、「劇団四季」の代表・浅利慶太さんにまで、
君は主役という顔じゃないな。顔も小さいし、舞台向きじゃない
と、言われたそうで、ますます、顔にコンプレックスを抱くようになっていったのだそうです。
鹿賀丈史は「ステーキ」で市村正親はステーキの添え物の「クレソン」?
それでも、市村さんは、鹿賀さんにライバル心を持っていたことから、浅利さんに(主演をさせてほしいと)直談判に行ったことがあったそうですが、
浅利さんには、
鹿賀がステーキなら、お前はステーキの横についているクレソンみたいなやつだからな
と、一蹴されてしまい、
鹿賀丈史がいる限り俺はクレソンなんだ
と、感じるようになったそうで、
ますます、鹿賀さんに対して、
当時は鹿賀丈史が正義だった。「ウェストサイド物語」をやれば丈史がトニーで僕がベルナルド。「ジーザス」やればヘロデ。「ベローナの恋人たち」やればシューリオ。だいたい大きい役はあっちで、周りに僕がいる
と、嫉妬するようになっていったのだそうです。
ただ、浅利さんから、
人には人の時計のサイクルがある。お前にはお前の時計がある。人の時計を見ると比較してしまう
と、腐らず地道にやる大切さを教えられたそうで、
クレソンはステーキになくちゃいけないもの。太陽があって月があるんだなと思った。太陽じゃなくていい、月の演技がある
と、考えるようになっていったのだそうです。