1956年に「日活」に入社して以来、メキメキと頭角を現し、やがては、石原裕次郎さんとともに「日活」の黄金時代を支えた、小林旭(こばやし あきら)さんですが、実は、「東映」の大ヒット映画「仁義なき戦い」の主演を務めるはずだったようです。
「小林旭は石原裕次郎から弟のように可愛がられていた!」からの続き
「日活」を退社し「東映」に移籍
並外れた運動神経を武器に、「日活」のアクションスターとして活躍された小林さんでしたが、テレビ時代の到来により、映画産業が急速に衰退すると、
日活とは自然消滅みたいな形だった。最終的にもギャラは1本500万はとっていたんだが、200万まで負けてくれというんだ。決してカネの問題じゃないが、そんなバカな話はあるか、もうできないとなった。
と、1972年、「日活」を退社し、「東映」に移籍されます。
(「日活」は、1971年には、「大映」と「ダイニチ映画」を発足し、次々と作品を発表するのですが、ヒットとは程遠く、多大な赤字を増やしただけとなっています。)
「仁義なき戦い」シリーズで強烈な存在感を示す
こうして、「東映」に移籍された小林さんは、1972年、移籍第1作目に「ゾロ目の三兄弟」に出演されると、1973年には、深作欣二監督作品「仁義なき戦い 代理戦争」で、主人公・広能昌三(菅原文太さん)と渡り合うヤクザ・武田明を貫禄十分に演じ、新境地を開拓。
そして、その後も、
「仁義なき戦い 頂上作戦」(1974年)
「仁義なき戦い 完結篇」(1974年)
と、「仁義なき戦い」シリーズに出演されると、
特に、「仁義なき戦い 頂上作戦」で菅原文太さんとともに演じた裁判所でのシーンは、現在も、映画史に残る名シーンとして語り継がれるなど、強烈な存在感を示したのでした。
「仁義なき戦い 完結篇」より。菅原文太さん(左)と小林さん(右)。
「仁義なき戦い」で主演を務めるはずだった
ところで、小林さんは、この「仁義なき戦い」には、第三部から参加されているのですが、実は、もともと、小林さんが「仁義なき戦い」の主演を務めることになっていたというのです。
というのも、小林さんは、1972年、「ゾロ目の三兄弟」で「東映」映画に初出演されているのですが、プロデューサーの俊藤浩滋さんが小林さんを気に入り、
小林さんと、鶴田浩二さん、高倉健さん、若山富三郎の4人で正月映画をやりたいと企画して、小林さんの家を訪ねたのですが・・・小林さんは留守。
そして、小林さんは、後日、俊藤さんが、
東映での面通し(面接)や
と、言っていたと聞いたそうで、
こっちは日活で看板張ってやってきた。今さら面通しもねえだろ
と、カチンときて、その話を断られたというのです。
それでも、俊藤さんは、その後、再び、小林さん宅を訪ねたそうですが、小林さんはまたもや留守で(小林さんは、その頃、歌がヒットし、歌手としてのスケジュールがいっぱいだったため、毎日帰りが遅かったそうです)、
俊藤さんが帰ろうとしたところに、ちょうど小林さんが家に帰って来たそうですが、
俊藤さんは、たまらず、すれ違い様に、
あんたは映画俳優やないわい、ウタ唄いや
と、捨て台詞を吐いたのだそうです。
こうして、結局、小林さんは、その正月映画に出演することはなかったのですが、
小林さんは、後に、俊藤さんが、その正月映画の後、小林さん主演で「仁義なき戦い」の企画を考えていたことを知ったそうで、
悪いことした、どっかで借りを返さなきゃ義理が立たない
と、思っていたところ、
俊藤さんから、
(仁義なき戦いの)代理戦争に出ないか
と、話があったそうで、このオファーは喜んで引き受けられたのだそうです。
撮影で川谷拓三を本気で壁に叩きつけていた
ちなみに、小林さんは、「仁義なき戦い 代理戦争」に出演されたことについて、
俺も神戸から西のホンモノのことはよく知ってたし、モデルになった人とも会ったりして、人物を色々膨らませてあの役をずいぶん煮詰めていったよ。
撮影で拓ボンを締め上げるシーンで、思いっ切り壁に叩きつけたりした。それで拓ボンが飯の席でケンカを吹っかけてきたこともあったな。東映の立ち回りはそこまで本気でやらなかったんだろう。
と、語っておられるのですが、
「東映」では、大部屋俳優だった、川谷拓三さんや志賀勝さんらが、他所から来た大スターを嫌う傾向にあり、そのため、梅宮辰夫さんが間に入り、小林さんと川谷さんたちを接触しないように気遣われていたほどだったそうでが、そんな緊迫感も実録映画としてのこの映画のヒットにつながったのかもしれません。
「仁義なき戦い」シリーズに出演される小林さん。