「アカデミー賞長編アニメ賞」に、「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」「風立ちぬ」と3度もノミネートされ、そのうち、「千と千尋の神隠し」では見事受賞する快挙を遂げられるなど、世界でも認められている、宮崎駿(みやざき はやお)さんですが、今回はそんな宮崎さんを陰ながら支え続けた奥さんと二人のお子さんについてご紹介します。
「宮崎駿は「鬼滅の刃」の大ヒットをどう思っているのか?」からの続き
妻は東映動画の先輩アニメーターだった
宮崎さんは、1965年、アニメ制作会社「東映動画」で同じアニメーターとして働いていた、3歳年上の朱美さんと結婚されているのですが、お二人は、結婚する時、共働きを約束していたそうです。
ただ、2人目の赤ちゃんが生まれた頃、共働きが無理となり、朱美さんは仕事を辞め、以降、主婦業と育児に専念するようになったそうで、
宮崎さんの長年の某友人は、
奥さんは東映動画の先輩アニメーターで、“絵のうまさ”で高い評価を受けていたんです。当時は、宮崎さんより将来を嘱望されていたそうですよ
宮崎さんが会長を務める市民団体「淵の森の会」の事務局長・安田敏男さんも、
奥さんは「絵は私のほうが宮崎よりもうまいのよ」と言うんです。「でも、結婚したら私が絵を描く仕事をやめることになっちゃった」と、私に寂しげに愚痴を漏らしたこともありました。本当は、自分の作品も作りたかったんでしょうね……
と、語っており、奥さんは、アニメーターとしての仕事に未練を残していたようです。
「東映動画」時代の朱美さんと宮崎さん。
引退後は妻と二人で作品作りの可能性も?
実は、宮崎さんも、1992年、中日新聞のインタビューで、
女房には申し訳なかったと、いまもそう思っています
と、奥さんへの感謝と謝罪の念を吐露されているほか、
2013年、引退会見をされた際には(後に撤回)、奥さんについて聞かれると、
家内には「お弁当は今後もよろしくお願いします。まことに申し訳ありませんが」と言いました
と、言葉少なに答えられており、
(宮崎さんは、毎日、「スタジオジブリ」に愛妻弁当を持参して出勤されていました)
宮崎さんが会長を務める市民団体「淵の森の会」の事務局長・安田敏男さんも、
宮崎さんは、奥さんに負い目があるんです。ですから、「今度は私にやらせてよ」ということになったら、宮崎さんが奥さんの出番を作ってあげるかもしれないですね。
2人の絵は、どちらが描いたかわからないくらい似ているんです。奥さんが絵コンテを作って、宮崎さんが奥さんのサポートに回り、2人で新作アニメを完成させる可能性もあるんじゃないでしょうか
と、語っていたのですが・・・
後に、宮崎さんが引退を撤回し、そんな話もお流れに。
しかし、いつの日か、奥さんと二人で作品作り、ということもあるかもしれません。
息子(長男)はアニメ監督の宮崎吾朗
そんな宮崎さんと奥さんとの間には、男の子が2人誕生しているのですが、1967年に誕生した長男は、現在、アニメ監督として活動されている、宮崎吾朗さんです。
宮崎吾朗さん
吾朗さんは、大学卒業後、「森緑地設計事務所」に入社し、建設コンサルタント・環境デザイナーとして公園緑地や都市緑化などの計画・設計に従事されると、都内の児童公園や総合公園の設計、岡谷湖畔公園の一部設計、工業団地の景観設計などに携わられたそうですが、
その後、プロデューサーの鈴木敏夫さんからジブリの美術館設立に誘われると、「森緑地設計事務所」を退職し、「スタジオジブリ」に入社。
そして、「三鷹の森ジブリ美術館」の総合デザインを手がけけられると、運営会社「株式会社ムゼオ・ダルテ・ジブリ」の代表取締役に就任。
2006年には、アメリカの作家・アーシュラ・K・ル・グウィンさんの児童文学を原作とする、スタジオジブリ作品「ゲド戦記」で監督デビューを果たされています。
宮崎吾朗は「ゲド戦記」でアニメ監督デビュー
ところで、この「ゲド戦記」、実は、お父さんの宮崎さんが、「風の谷のナウシカ」から「ハウルの動く城」の頃まで強い影響を受け、約30年にわたって、この「ゲド戦記」のアニメ映画化を熱望されるも、原作者のル・グウィンさんにアニメ映画化を断られていたのですが、
時が過ぎ、2003年頃、宮崎さんのアニメを見た原作者のル・グウィンさんから、
「ゲド戦記」を映画化できるのは宮崎駿しかいない
と、翻訳者を通じて、宮崎さんにメッセージを届き、企画がスタート。
ただ、当時、宮崎さんは、「ハウルの動く城」の制作に忙しかったため、息子である吾朗さんが、「ゲド戦記」の企画のリーダーとなり、ストーリーの構成や絵コンテの作成を手がけられたそうで、その働きぶりを見た、プロデューサーの鈴木敏夫さんが、吾朗さんを監督に抜擢されたのだそうです。
とはいえ、宮崎さんは、最初、吾朗さんが監督をするとの報告を受けた際、
あいつに監督ができるわけがないだろう
絵だって描けるはずがないし、もっと言えば、何も分かっていないやつなんだ
と、猛反対し、
鈴木さんに対しても、
鈴木さんはどうかしている
と、激昂。
しかし、吾朗さんが描いた「ゲド戦記」に登場する竜と主人公・アレンの絵を見せられると、宮崎さんは、そのスキルの高さに黙り込み、吾朗さんの絵を認めざるを得なくなったのだそうです。
宮崎吾朗さんが描いた「ゲド戦記」のポスター
(吾朗さんが描いた竜とアレンの絵は、「ゲド戦記」のポスターとしても使用されています)
宮崎吾朗さん(左)と宮崎さん(右)。
息子(次男)は版画家の宮崎敬介
さて、もう一人の息子さんですが、1970年に誕生した次男の宮崎敬介さんで、版画家の柄澤齊さんの作品に感動したことをきっかけに版画家を志すと、武蔵野美術大学造形学部在学中に独学で木口木版画を始められ、大学卒業後は版画家として活動されているそうです。
宮崎敬介さん
ちなみに、普段は、お父さんが「宮崎駿」であることを伏せて制作活動をされているそうですが、お父さんが関わった作品に、自身の作品を提供したこともあったそうです。
敬介さんの作品(木口木版画)
さて、いかがでしたでしょうか。
宮崎さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 父親は母親と再婚だった
- 幼少期の体験がその後の人生に大きく影響
- 母親が結核のため愛情を一身に受けられなかった
- 少年時代は神経過敏で引っ込み思案だった
- 「天空の城ラピュタ」の空賊ドーラは母親がモデルだった
- 手塚治虫の「新寶島」を読んで衝撃を受ける
- 高校生の時は暗い漫画を描いていた
- 「白蛇伝」のヒロインに恋していた
- 「白蛇伝」で純粋な世界に憧れている自分に気づく
- 学習院大学「児童文学サークル」で人形劇を企画しつつ漫画を描き続ける
- 安保闘争の影響を受け自己主張できるようになる
- 漫画家を諦めアニメーターを志す
- 東映動画に入社するも漫画家への思いを断ち切れず
- テレビ用の簡略化したアニメがもてはやされるように
- 「雪の女王」を観てアニメーターを生涯の仕事にしようと決意
- TVアニメ「未来少年コナン」で実質的な監督デビュー
- 「未来少年コナン」第1話のヒロイン・ラナはブスだった?
- 「未来少年コナン」の視聴率は振るわなかった
- 「ルパン三世 カリオストロの城」は最後は時間切れで妥協していた
- 「ルパン三世 カリオストロの城」は映画公開当初はサッパリだった
- 20年後の再放送では23.4%の高視聴率
- 引退を考えていた
- 漫画「風の谷のナウシカ」の連載がスタート
- アニメ「風の谷のナウシカ」の映画化が決定
- 「風の谷のナウシカ」の作業は殺人的スケジュールだった
- 「風の谷のナウシカ」はラスト付近の変更を余儀なくされていた
- 映画「風の谷のナウシカ」はヒットも再び引退宣言
- アニメ作品(映画)
- アニメ作品(短編映画)
- アニメ作品(テレビ)
- 受賞・受章歴
- 約30年前に「ゲド戦記」のアニメ化を熱望していた
- 約30年後に原作者が宮崎駿にアニメ化を熱望
- 長男の宮崎吾朗を監督に推薦することに
- 原作者ル・グウィンに息子が映像化する許可を取りに行く
- 原作者ル・グウィンから3つの質問
- 「ゲド戦記」のポスター画について熱弁を繰り広げていた
- 宮崎駿と高畑勲の出会い
- 高畑勲が宮崎駿の才能を発揮できるお膳立て
- 高畑勲の思想に宮崎駿が傾倒していた
- 高畑勲と宮崎駿は天才演出家と天才アニメーターのタッグだった
- 「母をたずねて三千里」では高畑勲と見事なコンビぶりも・・・
- 高畑勲とは「母をたずねて三千里」の頃から既に考えの相違が生じていた
- 「赤毛のアン」がアニメーターとして監督・高畑勲との最後の作品
- 宮崎駿と高畑勲はあうんの呼吸だった
- 「風の谷のナウシカ」のプロデュースを高畑勲に断られていた
- 高畑勲に「風の谷のナウシカ」を30点と酷評されていた
- 高畑勲に畏怖の念を抱き続けていた
- 高畑勲が求める絵を描けるのは自分しかいないと自負していた
- 高畑勲が死去
- 宮崎駿が「三鷹の森ジブリ美術館」でお別れ会を希望した本当の理由
- 宮崎駿が高畑勲に贈った弔事
- 高畑勲へ贈る弔事は1ヶ月かけて書いていた
- 自宅は埼玉県所沢市
- 所沢市の自然が気に入っている
- 宅地開発されそうだった雑木林を3億円で買い取り、所沢市に寄付
- 「トトロの森」のゴミ拾いが日課
- 大の航空機好きで軍事マニア
- 「鬼滅の刃」が「千の千尋の神隠し」の興行収入を抜くのは確実?
- 「鬼滅の刃」に対する宮崎駿のコメント
- やはり「鬼滅の刃」は意識している?
- 現在は「君たちはどう生きるか」を制作中
- 妻は東映動画の先輩アニメーターだった
- 引退後は妻と二人で作品作りの可能性も?
- 息子(長男)はアニメ監督の宮崎吾朗
- 宮崎吾朗は「ゲド戦記」でアニメ監督デビュー
- 息子(次男)は版画家の宮崎敬介
について、まとめてみました。
40年以上に渡って作品を発表し続け、老若男女年代問わず、多くの人々の心を捉え続けてきた宮崎さん。既にアラエイティー(80代)という高齢ですが、引退などと言わず、まだまだ、これからも素敵な作品を作り続けてほしいものです。
「宮崎駿の生い立ちは?幼少期に体験した衝撃的な出来事とは?」