戦後の日本を代表する喜劇役者・堺駿二さんを父親に持つ、堺正章(さかい まさあき)さん。今回も、引き続き、堺さんの父親・堺駿二さんについてご紹介します。

「堺正章の父親・堺駿二は早川雪洲に弟子入りしていた!」からの続き

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父親・堺駿二が松竹少女歌劇団の新人ダンサー・幹千代子と結婚

映画スター・早川雪洲さんに弟子入りし、早川さんの一座で舞台を中心に活動していた駿二さんは、その後、早川さんと原節子さん主演の日独合作映画「新しき土」(1937年公開)の端役(エキストラ)で映画デビューを果たされているのですが、

同時期、「松竹少女歌劇団」の新人ダンサーだった幹千代子(芸名:三浦たま子)さん(堺さんの母親)と出会うと、やがて、千代子さんは、「桃色争議」の煽(あお)りを受け、「松竹少女歌劇団」を離れることになったそうで、駿二さんは、そんな千代子さんを見て同情。その後、同情が恋に変わって結婚されたそうです。

(「桃色争議」とは、「ターキー争議」とも言われる、「松竹」と「松竹少女歌劇団」との間に起こった労働争議のことで、「松竹少女歌劇団」のスターだった水の江瀧子さんが先頭に立ち、「松竹少女歌劇団」の待遇改善を求めた事件)

ちなみに、結婚後、千代子さんは、舞台に立つことはなく、役者としての駿二さんをサポートするため、家庭に入られたそうです。

父親・堺駿二が「ヤパンモカル劇団」に入団し清水金一とのコンビで人気者に

こうして、公私ともに順調だった駿二さんでしたが、1936年頃、師匠である早川雪洲さんが、映画の撮影のため、フランス・パリに行くことになり、早川さんと別れることに。

そのため、駿二さんは、浅草オペラ館の「ヤパンモカル劇団」(「やっぱり儲かる」が由来)に入り、劇団の中心役者だったシミキンこと、清水金一さんとコンビを組むと、ストーリーとはまるで関係ない、アドリブによるギャグ連発のドタバタ劇で人気を博します。

そして、プライベートでも、1938年には、長女・由紀子さん(堺さんのお姉さん)、翌年の1939年には、長男・正雄さん(堺さんのお兄さん)が誕生し、公私ともに順調だったのですが・・・

父親・堺駿二が舞台の仕事を失う

1940年、清水さんが、突然、舞台を辞め、映画界に移ると言い出したそうで、そのため、駿二さんは、仕事を失ってしまいます。

そこで、駿二さんは、伊東の温泉旅館「暖香園」に番頭として就職するのですが、長続きせず、山梨県富士吉田市に暮らす親戚を頼って移り住み、商店街で玩具屋を経営されるも、これも長続きしなかったそうです。

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父親・堺駿二が再び清水金一と組み「新生喜劇座」結成

そんな中、1942年、「東宝」と契約の切れた清水さんから、浅草で再び舞台を始めるから一緒にどうかと誘われたそうで、

一度、清水さんに裏切られたことから、迷うも、

役者とて人間なのだから好き嫌いはある。こんな相手とはやりたくないとも思う。しかし一たび舞台に立ったら好き勝手なことは言えないはずだ。お客のためにベストをつくすことそれが役者の本筋ではないだろうか。

と、考え直したそうで、この誘いを受けることに。

こうして、駿二さんは、清水さん、田崎潤(当時は田中実)さんとともに、「東京吉本」(吉本興業の傘下)の「浅草花月劇場」「新生喜劇座」を結成し、清水さんとコンビを組んで舞台に出演すると、たちまち全国的な人気を博したのでした。

「堺正章の父親・堺駿二は舞台公演中に死去していた!」に続く

「シミキンの拳闘王」より。右端が堺駿二さん。(中央はシミキンこと清水金一さん)

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