長きにわたる貧乏生活から生み出された、天衣無縫ともいえる型破りな芸風で、たちまち大ブレイクした落語界の名人・古今亭志ん生さんを祖父に持つ、池波志乃(いけなみ しの)さんですが、今回は、志ん生さんの息子で、池波さんのお父さんである・10代目金原亭馬生さんについてご紹介します。

「池波志乃の祖父・古今亭志ん生は口演中に倒れて半身不随となっていた!」からの続き

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父親は10代目金原亭馬生

池波さんのお父さんは、落語家の10代目・金原亭馬生(きんげんてい ばしょう)さんです。


10代目・金原亭馬生さん

馬生さんは、落語家の名人である、父・古今亭志ん生さん(池波さんの祖父)のもと、1928年に誕生するのですが、

この頃、両親は家賃も払えず、馬生さんを取り上げてくれた産婆さんに払うお金さえないほど貧乏のどん底だったそうで、わずかなお金でたい焼きを買い、「尾頭付きです」と言って産婆さんに差し出されたそうです。

そして、その後も、両親は、生後3ヶ月の馬生さんをおぶって、夜逃げを繰り返されたのだそうです。

父親・10代目金原亭馬生は画家に憧れていた

その後、父親の古今亭志ん生さんは、ようやく売れ始めるのですが、世界恐慌から日中戦争へ突入という時代背景もあり、暮らしは一向に楽にならなかったそうで、

馬生さんは、画家になりたかったそうですが、1942年、お父さんの勧めで入門すると、1943年には、15歳で「4代目むかし家今松」を名乗り、高座デビューされます。

(当時は戦争で若手落語家が兵隊に取られ、落語家が足りなかったため、いきなり「二つ目」からのスタートだったそうですが、貴重な新入りとしてこき使われたそうで、馬生さんは、後に、東横落語会のマクラで「長らく落語界の最底辺におりまして」と語っておられます。)

(※「二つ目」とは落語の階級のことで、寄席のプログラムで2番目に高座へ上がることからこう呼ばれ、それまでは着流しだったのが、ようやく、紋付羽織袴(もんつきはおりはかま)を着ることが許され、一人前と認められるそうです)

父親・10代目金原亭馬生は親の七光とイジメに遭っていた

そして、1944年頃には、「初代古今亭志ん朝」と改名するのですが、翌年の1945年4月には、終戦直前になって、父親の志ん生さんが満州へ慰問に出ることになったため、馬生さんは後ろ盾をなくしてしまい、

「親の七光」と冷遇されるほか、寄席の出番を減らされるなどの嫌がらせを受け、お母さん、二人の姉、幼い弟(後の古今亭志ん朝さん)を抱えて、守ってくれる人もおらず、ひどい苦しみを味わったのだそうです。

父親・10代目金原亭馬生は「志ん生の息子」から「志ん朝の兄」に

そんな中、1947年、ようやく父親の志ん生さんが帰国し、すぐに寄席に復帰すると、志ん生さんは空前の落語ブームに乗って大ブレイク。

一方、馬生さんはというと、同年、再び「むかし家今松」を名乗り、翌年の1948年には真打に昇進して、5代目古今亭志ん橋を襲名、1949年には10代目金原亭馬生を襲名と、ようやく落語家としての活動も安定したかと思われたのですが・・・

馬生さんは、何をやってもお父さんと比べられ、「馬生は固い」「面白くない」と散々、酷評されます。

そして、1961年、人気絶頂だった父親の志ん生さんが倒れると、今度は、弟の3代目古今亭志ん朝さんが時代の寵児となり、馬生さんは、「志ん生の息子」から「志ん朝の兄」と呼ばれるようになったのでした。

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父親・10代目金原亭馬生が食道ガンで他界

そんな馬生さんは、マスコミを避け、高座の芸を磨くことにひたすら集中されていたのですが・・・1982年、「食道ガン」のため、54歳の若さで他界。

池波さんは、そんなお父さんについて、

仕事柄、食道のそばの声帯が傷つくことを恐れて手術をこばみ、命より芸を選んで、死期を早めてしまいました

と、語っておられます。

「池波志乃の若い頃は朝ドラ「鳩子の海で」でデビューしていた!」に続く

10代目金原亭馬生さん(左)と娘の池波さん(右)。

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