「生きるのも日常、死んでいくのも日常」と、闘病しながら仕事を続け、2018年9月15日、75歳で亡くなった、樹木希林(きき きりん)さんですが、ガン闘病のずっと前、2003年には左目も失明されていたといいます。
「樹木希林が旦那の内田裕也と離婚しなかった理由とは?」からの続き
左目を失明していた
樹木さんを、「目」で多くの方が検索されているようですが、実は、樹木さんは、2003年に左目を「網膜剥離」で失明していたというのです。
というのも、樹木さんは、2004年に発売された長嶋茂雄さんとの対談本「人生の知恵袋―ミスターと7人の水先案内人」でそのことを告白されており、
樹木さんが左目に異変を感じ始めたのは2003年1月頃だったそうですが、その2ヶ月後、朝起きると、突然、何も見えなくなってしまったそうで、
樹木さんは、当時を振り返り、
一瞬、絶望しました、明日死ねるわけじゃない。ずっとこれで生きていくのかと思ったら・・・それも人生と思いながらも、ことあるごとにため息はついていました。
(医師から手術を勧められるも、)手術するかどうか迷って、やっぱりやめようと思ったんです。「よし、私は目1個ぐらいつぶれても、お釣りのくる人生だったな」というふうに思って覚悟を決めたんです。
と、明かされています。
全身ガンに蝕まれながら仕事を続ける
ただ、樹木さんの不運はこれに留まらず、2004年には「乳ガン」が発覚し、2005年1月には右乳房の全摘出手術。
しかも、2008年頃には、腸、副腎、脊髄にまで「ガン」が転移していることが発覚し、「四次元ピンポイント照射療法」という放射線治療を受けられています。
(※「四次元ピンポイント照射療法」とは、ガンに放射線を立体的に当てる「三次元照射」に、呼吸による位置変化を追跡する時間軸を加えた治療法で、ガン細胞だけを狙い撃ちし、正常な細胞を傷つけることが少ないため、体の負担も軽く済むと言われています)
それでも、樹木さんは、
抗ガン剤治療で苦しむ患者さんを何人も見ました。でも、私の治療法だと、生活の質が全く落ちなかった。だから、とても満足しています。
と、明かされており、
その言葉を証明するかのように、生きている事自体が奇跡的な全身ガンを患いながらも、その後もお仕事を続けられたのでした。
死因は?
そんな樹木さんは、遺影の撮影や身辺整理もされ、娘婿の本木雅弘さんには、
最期は自宅で迎えたい
と、希望を伝えるなど、死の支度をされていたそうですが、
2018年5月、出演していた映画「万引き家族」がカンヌ国際映画祭の「パルムドール」を受賞したことから、フランスのカンヌを訪れるも、さすがにレッドカーペットではとても辛そうなご様子で、それから4ヶ月後の2018年9月15日、とうとう、75歳で他界されたのでした。
(葬儀は、同月30日、東京都港区の光林寺で執り行われました)
「第71回カンヌ国際映画祭」より。(左から)樹木さん、是枝裕和監督、城桧吏くん、リリー・フランキーさん、佐々木みゆちゃん、安藤サクラさん、松岡茉優さん。
ちなみに、死因は明らかにされていませんが、全身ガンに侵されている状態だったため、おそらく、それに伴う、「多臓器不全」と思われます。
さて、いかがでしたでしょうか。
樹木さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?旧芸名は?
- 高校時代は薬剤師を目指すも・・・文学座付属演劇研究所入り
- 30歳で老人役を演じていた
- 自分の芸名「悠木千帆」をオークションで売却していた
- 出演作品(テレビドラマ)
- 出演作品(映画)
- 受賞・受章歴
- 元旦那は岸田森
- 内田裕也と再婚
- 内田裕也のDVで別居
- 娘誕生後、内田裕也が勝手に離婚届提出も樹木希林が認めず離婚不成立
- 離婚しなかった理由とは?
- 左目を失明していた
- 全身ガンに蝕まれながら仕事を続ける
- 死因は?
について、まとめてみました。
ラブラブな結婚生活⇒破局⇒再婚もDV被害⇒失明⇒全身ガンと、ジェットコースターのような人生を駆け抜けた樹木さん。どうか、今は、痛みのない世界で安らかに眠られていますように。
ご冥福をお祈りいたします。
「樹木希林は若い頃に自分の芸名「悠木千帆」をオークションで売却していた!」