高校卒業後、商社に就職するも、知人に誘われて観に行った、鈴木忠志さん主宰の早稲田小劇場のお芝居「どん底における民俗学的分析」に衝撃を受け、すぐに会社を退職し、役者になる決意したという、柄本明(えもと あきら)さん。やがて、主宰の串田和美さんに誘われて参加した劇団「自由劇場」で、ベンガルさんと綾田俊樹さんに出会うと、共にナンセンスな笑いを追求されます。
「柄本明の生い立ちは?若い頃は商社のサラリーマンだった!」からの続き
会社を退職後は金子信雄の新演劇人クラブ「マールイ」に参加
早稲田小劇場のお芝居を観て衝撃を受け、すぐに会社を退職した柄本さんは、まもなく、金子信雄さんが主宰する新演劇人クラブ「マールイ」に参加されたそうですが、
劇団に所属したからといって、すぐにお給料が出る訳ではなかったため、スーパーやNHKの大道具係のアルバイトを掛け持ちしながら生活費を稼ぐ日々だったそうです。
串田和美に誘われて劇団「自由劇場」に参加
そんな中、柄本さんは、1974年、25歳の時、劇団「自由劇場」(現在の「オンシアター自由劇場」)の主宰者・串田和美さんに声をかけられ、劇団「自由劇場」に参加。
俳優として本格的に舞台に立つと、翌年の1975年には、8本の舞台に立たれるなど、精力的に活動されたのでした。
即興劇に手応えを感じる
また、柄本さんは、ここで、ベンガルさん、綾田俊樹さん、笹野高史さんらと知り合われているのですが、
笹野高史さんとコンビを組んで稽古をしていると、それを見た劇団の仲間が爆笑したそうで、
この仕事は水に合っているのかな
と、手応えを感じられたのだそうです。
(笹野高史さんとは、よくコンビを組んで即興でお芝居をされていたそうです)
佐藤B作の「東京ヴォードビルショー」を見て衝撃を受ける
そんな柄本さんは、やがて、劇団「自由劇場」の元メンバーである佐藤B作さんが「東京ヴォードビルショー」の舞台に立っているのを見て衝撃を受けたそうで、
(東京乾電池を結成する)その前に、佐藤B作が作った「劇団東京ヴォードヴィルショー」の芝居がまた、ものすごくくだらなかったんです。
僕の「くだらない」っていうのは、褒め言葉なんですけど、「くっだらないなぁ」と思って・・・。自由劇場の芝居より、もっと“泥臭いもの”をやりたかったんですかね
と、コメディに目覚められます。
ベンガルと綾田俊樹共にナンセンスな即興劇を繰り返していた
そして、劇団「自由劇場」で知り合い、仲良くなった、ベンガルさん、綾田俊樹さんと共に、
全身に割り箸が刺さった男と、スプーンで覆われた男が、
お前か、スイカをはしで食うヤツは
そうだ、なんでもはしで食うのだ
と言いながら、闘う姿を描いた「決闘!割りばし仮面VSスプーンマン」を思いつき、新宿のビアガーデンで酔った客相手にお芝居をされるのですが・・・
お客さんはまったく見てくれず。
そこで、すぐに反省会をやり、次の時には、マントを羽織ったベンガルさんが隣のビルから飛び降りる、というアクションを入れてみたそうですが、あまりの熱演でベンガルさんは骨折。
そのため、ショーは、「決闘!割りばし仮面VSスプーンマン」から「たぬきとでんでん虫の決闘」に変わったそうですが、今度は、綾田さんがバケツで打たれて頭から血を流したそうで、
(深夜に公園や神社で稽古していたため、パトカーに乗った警察が駆けつけたこともあったそうです)
こうして、柄本さんたちは、体を張った命がけのお芝居を繰り返しては議論する、ということを繰り返し、徹底的に「くだらなさ」を追求し、政治や思想の影響が濃かった1970年代の演劇界に、ナンセンスな笑いを打ち立てられたのでした。
「柄本明の若い頃は「東京乾電池」でブレイクしていた!」に続く