「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が爆発的な人気を博し、一躍トップアーティストとなった、坂本龍一(さかもと りゅういち)さんですが、人気絶頂期に「YMO」を「散開(解散)」すると、ソロ活動ではさらなる大ブレイクを果たします。
「坂本龍一はYMO結成直前に「千のナイフ」でソロデビューしていた!」からの続き
映画「戦場のメリークリスマス」で俳優&映画音楽デビュー
坂本さんは、「YMO」が解散する少し前、俳優として、映画「戦場のメリークリスマス」に出演すると、映画音楽も手掛け、「英国アカデミー賞」の作曲賞を受賞されているのですが、
実は、最初は、大島渚監督に、俳優として、映画「戦場のメリークリスマス」への出演オファーを受けただけだったそうです。
ただ、その時、坂本さんが、
こんな演技素人の僕が役者を
と、驚きながらも、とっさに、
音楽もやらせてください
と、(通常、音楽家が映画にオファーすることはできないのですが)出演の条件に映画音楽の制作を提示されると、
大島さんも、その場ですぐに、
ハイ、お願いします
と、このオファーを承諾してくれたのだそうです。
「戦場のメリークリスマス」より。坂本さん(左)とデビット・ボウイさん(右)。
「戦場のメリークリスマス」の映画音楽は意識のないまま完成していた
実は、坂本さんは、(これまで、一度も映画音楽を手がけたことがなかったにもかかわらず)なぜかできそうな自信があったのだそうで、
実際、その後、シンセサイザーへの打ち込みの作業を始めると、2週間ほど経った後、突然意識がなくなり、目覚めた時に譜面を見ると、(ハーモニーの調整はあったものの)譜面がすでに書いてあったそうで、
後に、坂本さんは、
まさに自動筆記みたい、自分が作った気がしないんですよ
と、天から降ってきたような制作だったことを明かされています。
映画「ラストエンペラー」にも俳優として出演オファー
その後、「戦場のメリークリスマス」が「カンヌ国際映画祭」に出品され、坂本さんはフランスのカンヌを訪れたそうですが、
そこで、イタリアの映画監督、ベルナルド・ベルトルッチさんと知り合うと、3年後の1986年には、またしても、映画「ラストエンペラー」に俳優として出演オファーを受けたそうで、
名だたるプロばかりの中、何度もダメ出しをされながら、北京、大連、長春、と続く撮影に、なんとかついていったそうです。
「ラストエンペラー」より。甘粕正彦に扮する坂本さん。
映画「ラストエンペラー」でアカデミー賞作曲賞
すると、そんな撮影の最中、突然、ベルトルッチ監督から、
溥儀(ふぎ)が満州皇帝として即位する場面に生の音楽を入れたいから、戴冠(たいかん)式の音楽を、すぐに作れ
と、言われたそうで、
はじめは、俳優としての参加だったことや、中国の音楽をほとんど聴いたことがなかったため、困惑したそうですが、ここで引き下がりたくはなかったため、せめてピアノが欲しいと、旧満州映画協会からピアノを借りてなんとか作曲されると、
今度は、撮影が終了した半年後に、「ラストエンペラー」の音楽を作れと、これまた急な依頼が来たそうで、おまけに制作期間はたったの1週間。
そこをなんとか頼み込んで2週間に伸ばしてもらい、監督の無茶ぶりに応えられると、翌年の1987年には、この映画で、「ゴールデングローブ賞最優秀作曲賞」(日本人初)と「アカデミー賞作曲賞」受賞という快挙を遂げられたのでした。
「第60回米アカデミー賞(1988年)」で作曲賞を受けた、(左から)坂本さん、デビッド・バーンさん、スー・ソンさん。
以降、坂本さんは、映画音楽作家として、世界中にその名を知られることとなり、その地位を確立されているのですが、そこにとどまることなく、アーティストやイベントのプロデュース、CMソング制作等の音楽活動はもちろんのこと、バラエティ番組でダウンタウンとコントをするほか、さまざまな社会貢献活動にも参加され、多方面で活躍されています。
「坂本龍一の元嫁は矢野顕子!娘は坂本美雨!他の子供は?」に続く